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ことのは

誕生日の日にメールが届く。

私が心から繋がっている、と思っている人たちから。

大好きな女の子から、

もうこのうえなく美しくて真実で朝露の野バラみたいな言葉を束ねたブーケが届いて、

泣いてしまう。


何度も何度も読み返す。
言葉は道具に過ぎない。
だけど、磨かれた言葉は力を持つ。
何もないところに一面の白い花を咲かして、
何億光年という遠い場所に向かって飛んでいく。
そして人の心を光で照らすのです。
言葉は道具に過ぎないけれど、心を伝えてくれる。
そういう本物の言葉に出会うとき、私は自分の言葉をしっかりと磨いていこうと思う。


自分の思うことを人に伝えるのは難しい。わかってもらうのは難しい。
だからこそ私は自分の言葉をしっかりと磨いていようと思う。
少しでも本当の心を伝えるために。人にわかってもらうために。

30歳!

30になった。

振り返ると、欲張った20代だったなーと思います。
いろんなところを旅して、服をとっかえひっかえ着て、おいしいものを食べて、
欲しいものをじゃんじゃん買って、お芝居や歌舞伎や映画を見て、
音楽を聴いて、恋をして、死ぬほど仕事した。
本当はもっと本を読みたかったし、
本当は体を柔らかくほぐしたかったし、
本当は友だちに会いたかったし、
本当は勉強もしたかったし、
本当は習い事もしたかったし、
本当は家族との時間を持ちたかったし、
本当は恋人ともっと話したかったし、
本当はもっともっと本を読みたかった。
何かをあきらめる必要はないけれど、
何もかもすべてぜんぶ、なんてありえない。
だって1日にたった24の時間しか私にはない。
欲張った挙句に、30になってわかったのはそんなあたりまえのことでした。

30歳からは、自分にとって本当に大切なもの必要なものを
よく見極めて、それを大切にして生きていきたいと思う。
●本を読み続ける
●体を柔らかくする
●仕事は頑張るけど、やりすぎない
●愛する人を大切にする
●本当に大切な友だちだけを大切にする
●ひとりの時間をしっかり持つ
とりあえず1年間はこれ!
これだけをバランスよくやる。

にちようび

国立博物館に行こう、フェリーニを見にいこう、友だちのプレゼントを探しに行こう、
と思っていたのに、結局どこにも行かなかった。
本を読んでは眠り、読んでは眠り、の繰り返し。
こんな怠惰な休日は久しぶりだと思う。
私は専業主婦にはなれないな、とつぶやく。
こんなにも何もしない1日を私は罪悪感なしでは過ごすことはできない。

夕方、少し涼しくなった頃、自転車で近所にお買い物。
この街に来てよかったことのひとつは靴を修理するお店があること。
ハイヒール好きで歩くのが好きな私は、すぐに靴のゴムをダメにしてしまう。
サンダルをふたつ取りに行って、商店街を東から西へ、西から東へ歩く。
この街は生きている。
子供がいて、おじいちゃんおばあちゃんがいて、若者がいて、家族がいる。
果物やではお客さんとの会話があって、

ケータイショップの中には夏休みの子供とその親がいて、

焼き鳥やのまえでは持ち帰りようの焼き鳥を焼いていて、

ツタヤにはお客さんがいっぱい。
私は長らく人々の生活が息づいた街に住んでいなかったのだな、と思った。
私には賑やか過ぎる、と思ったこの街だったけれど、それもまたよし。
私はいつかこの街が好きになるだろうと思った。

何もしていないから、せめて夕ご飯くらいゆっくり時間をかけて作ろう、と
ハンバーグの材料を買い込む。
合びき肉と卵と玉ねぎをまぜてこねた頃、電話。
じっくりと時間をかけて蒸し焼きにする。
届いた野菜を切って、
アスパラとトマトとバジルとなすのサラダ。

生まれて初めて作ったハンバーグは、
なんとも感動的においしく、ひとり150gのお肉をペロリと平らげてしまった。

私は料理は上手じゃないけど、
私が作った料理はおいしい。
それはけっこうすごい発見だなーと思ったのだけど、
なぜ私の料理がおいしいかというと、
それは愛の成せる技だと思います。
冗談ではなく、本気でね。
技はないけど、知らない人が作った外で食べるどんなご飯よりも
おいしいはずですよ。

かつて私の母もそう言っていた。
「お母さんのごはんが一番おいしい」
「そうよ、だって愛がこもっているからね!」

大事なのは愛ですよ、愛。
ごはんも、人と人との関係も、おうちだっても服だっても何もかも。

朝顔

昨日の残りのかぶとアスパラとえびのサラダとパンと桃をもりもり食べて、
洗濯をして、部屋の掃除をした。シャワーを浴びた。
それから、浴衣に着替える。
そして、電話をした。
「朝顔市に連れて行ってください」

私の浴衣はもう4年もまえに、誕生日に作ってもらったもので、
紺地に白の紫陽花柄。
いっしょに買った薄ピンクにえんじ色の帯は、すごくかわいくて、
そしていまの私にはかわいすぎるかもしれない。

浅草でどじょうを食べる。
渋谷の駒形どぜうは何度も行ったけど、本店は初めてで、
大きな広間に、いくつもテーブル代わりの板が渡してあって、座布団の上に座って食べるのが、
情緒があって楽しかった。
どじょうなべと柳川とビール。

浅草寺をお参りして、水上バスに乗って日の出桟橋へ。
浜松町から上野、入谷へ。
朝顔市は、思った以上にとっても普通のお祭りで、
とっても庶民的で賑やかだった。
道の一方に朝顔やさんがずらり、もう一方に夜店がずらり。
お好み焼き、無添加スペアリブ、あんず飴。
朝顔やさんをひとつひとつ順番に見ていく。
どこも扱っている商品は似たり寄ったりで、
「鉢も支えも土に還るエコ商品を使っています」
と謳ったお店が意外と人気だった。
どこのお店でも主流は、ひとつの鉢から4種類のお花が咲く、
という4種咲きの鉢。
ひとつの鉢に4種類の種がまいてあって、青やピンク、紫の花が楽しめるそう。
私はそれじゃないのが欲しかった。
「ひとつの鉢に1種類のお花が咲くのが欲しいんです」
と言って、ひとつひとつお店を訪ねていったら、出会ったのが、
「団十郎」という朝顔だった。
その名のとおり、市川団十郎好みのえび茶色の花をつけるという。
本当はブルーのお花がいいな、と思っていただけど、
よく見るとえび茶色も悪くない、というかむしろ素敵で、
ひとつ買ってもらった。

次の日、
「朝顔が咲いてるよ」という声で目を覚ます。
あずきを和紙に滲ませたような、優しくて上品な花が咲いた。
毎日いい天気で、夏の訪れを嬉しく思う。
そして、朝顔の花が開いているかもしれない、と思ったら、
目覚めるのが楽しくなる。

弟に朝顔市に行ったよ、と話して、
「ひとつの鉢に4種類の花が咲くのが人気だったんだけどね…」
と言ったら
「お姉ちゃんは、そういうの嫌いだもんね」
と言われて、本当にびっくりした。
弟は私のことをよくわかっている。

「FOR HUNDREDS OF CHILDREN」ハンバードハンバート

FOR HUNDREDS OF CHILDREN/ハンバート ハンバート
¥2,250
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セールで売れ残った黒のエナメルのサンダルを買って、

デパートで野菜を買って、帰ってきたら、トトロをやっていた。


そのままトトロを観て、たくさん泣いた。
宮崎駿の映画はいつもどこか悲しいな、と思う。
明るくて悲しい。それは、私たちの人生そのものが明るくて悲しいから。
彼もまた人生を正しく描いて、そして正しい生き方を示してくる人。
サツキもメイも一生懸命笑って、一生懸命泣くから、私も一緒にたくさん泣いた。


かぶ、オクラ、アスパラ、ズッキーニ、エビ。
片っ端からゆでて、熱いまま、オリーブオイルと塩をかけて、こしょうをばりばりひいて、食べる。

それから桃。一日、2個のペースで桃を食べている。


枕元の電気だけにして、今日焼いてもらった「ハンバートハンバート」のファーストアルバムを聴く。

そして、さて本を読もうと思って、読み始めたら、夜に忍び込んできた。
そして、涙が溢れてきた。

そしてひとしきり涙を放っておいたあとに、

私は、ああ、私に本と音楽があってよかった、と思ったのです。


それから少し遠いけれど映画や絵も。
本も音楽も映画も絵も、人間がひとりきりになるためにあるんじゃないかと最近思う。
それらに心が向かうとき、私はいつもひとりきりだから。
誰かと一緒にいても、ひとりきりだから。
それを知らしめるために、本や音楽はあるんじゃないかとさえ思う。


私には夜に忍び込む本や音楽がたくさんある。
それは寂しいことだけど、どれだけ私の心を慰めてくれることでしょう。
そう思ったら、また涙が出てきた。

エミリー・ウンワグレー展

六本木で発表会があって、でもちょっと遅刻して、さぼった。
さぼって「エミリー・ウンワグレー展」を見にいった。
平日の美術館なんて、学生の時ぶりだ。
とってもすいていて、アートな椅子に腰掛けて、外の景色を眺めたりした。

エミリー・ウンワグレー。
オーストラリア、アボリジニーの女性画家。
この名前も、アボリジニー語ではもう少し違う発音になるんだけど、
外の人の言葉で勝手に読み仮名をふると「ウンワグレー」になるってだけなんだって。
儀式のときにボディペインティングをしたり、布に絵を描いたりしていたが、
政府のプロジェクトで書いたキャンバス画がアート界に衝撃を与え、注目されるようになる。

会場に入って、最初の「アルハルクラ」を見たとき、
あまりにも眩しくて眼がいたいほどで涙が出た。
光の粒が押し寄せてくるみたい。
赤、黄色、緑、茶色、青、白。
いわゆる点描画で、モネの睡蓮のような感じ。
でも、モネの睡蓮はけぶった感じだけど、もっと光と命に満ち溢れた感じ。

大島弓子の『綿の国星』の1話めの最後の方。
チビが来てひと段落して、時間が過ぎていくのを表す、見開きのシーンを思い出した。
春から夏へ移り変わっていく流れ。
春の花がたくさん出てきて。
「なんという なんという季節でしょう」
あのシーンを初めて読んだとき、
マンガのモノクロページだというのに、
私の目には色とりどりの花が浮かび、
あの嵐のようにものすごい勢いで浮き立つように過ぎ去っていく、
春の渦のなかに自分が巻き込まれていく感じがして、涙が出た。
そのときの感覚を思い出しました。
ものすごい勢いで命が芽吹いていく感じに体が巻き込まれていく感覚。

ひとつひとつ見ていくうちに思ったのは、
この柄のお洋服があればいいのに、ということで、
こんな柄のお洋服を着たらどんなに元気が出るかしらと。
そして、その感覚は正しいのかもしれないと思った。
だって、もともと彼女は、儀式のときになされるボディペインティングや
儀式のときに身につけるものを書いていたのだから。
そして、そこには彼女のアルハルクラへの敬意と愛が込められていたのだから。
それを身につけたい、というのは私の正しい感覚だ、と思う。

途中、彼女に関するビデオをいくつか見ていたら、
また泣きそうになった。
彼女の故郷、オーストラリアの映像が流れいていて、
それは彼女の絵そのものじゃないか、と思った。
この大地をあんなふうに描くなんて、
と思って、その神々しいほどの才能になんだかとっても感じ入ってしまった。
赤は夕焼け空の色、黄色は遠い異国の花の色、緑は雨の後に芽吹く葉の色、
赤茶色はオーストラリアの土の色、青は真昼間の空の色、白はたなびく雲の色。
そのすべてが混ざり合っているのが彼女の絵。
現代アートを知らない作家であったにも関わらず、
その作品は現代アートそのもの、いえそれ以上の表現であったことは本当に不思議。
こんなこともあるのだ。
作品は作品のみで語ればいい。
本でも映画でも絵でもそうだけれども、
だけれども。オーストラリアの豊かな大地を知ってこそ、
彼女の作品はより意味を持ち、輝きを放つ。

さようなら

とっても酔っ払って、大きな駅から歩いて帰りながら、
この街が好きすぎる、と思った。
大きな街からの一本道、だんだんと静かになっていく。
夜遅くまでやっている本屋さんを超えて、灯りがともるワインバーを越えて歩いていく。

たくさんの思い出がありすぎる。
道端のオレンジの花を摘んだこと、
子供みたいに泣きながら「カレーの歌」を歌いながら歩いたこと、
弟とふたり夕ご飯の買い物をして子供が家に帰るように歩いたこと、
仕事だけした日、心を解き放ちながらこの道を歩いたこと、
雨に濡れながら歩いたこと、
心の中にある歌をひとつひとつ歌いながら歩いたこと。
たくさんの思い出がありすぎる。
そして、私はこの大きな街の近くにある小さな街を
本当に愛していました。
夜遅くまでやっているカフェも、
ときどき走りにいった緑があふれる公園も、
私の過去に繋がっていくような大きな交差点も、
古くからある街だけど若い人がいる雰囲気も、
本当に大好きだった。

こんなにも好きな街と好きな部屋に
私はもう出会えないかもしれない、とも思う。

でもさようなら。
私は出て行きます。
すぐに私は新しい街になじんでいくでしょう。
そして、私は新しい街を愛すでしょう。

そして、私はきっと忘れてしまう。
この街をこんなに愛していたということを。

男の子と女の子

わーと思うくらい素敵な男の人に会う。
いつも素敵なシャツを着ている。シンプルで素材がいいやつ。
料理が上手で(らしい)本当においしいものをよく知っている。
本の趣味が似すぎていて、とってもとってもびっくりした。
「向田邦子のエッセイが好きで」
と言われて、びっくりしすぎて、私は黙ってしまったくらい。

生まれた場所も育った場所も違うのに、
好きなものが似ている、というのは本当に素敵なことだと思って、
恋とかとは別に、いつかそのうち大切なお友だちになれたらいいな、と思った。

久しぶりに本の話をした。
本の話をすると、私はいつも自分が小さな中学生の女の子だったときのことを
思い出します。
どの場面が好きか、どうしてそのときあの主人公は泣いたのか、
そんなことを一生懸命一生懸命友達と話した。
同じ場面が好きだったら、一気に仲良くなったような気がする。
あのときの小さな興奮を思い出しながら、
本の話をした。
本を好きな人と、本の話をするのは本当に幸せなことです。

彼は「電車で本を読んでいる女の子を見ると5割り増しにかわいく見えます」
と言って、笑いながら私もすごくよくわかる、と思った。
図書館で会う男の子はいつも5割り増しだったから。

あーこういう素敵な男の人っているんだなあ。
きっとこれからまだまだこういう人にたくさん出会うんだろうなーと思って
なんだか可笑しいな、とくすくすひとりで笑ってしまった。

ひよこ

昼間の電車に乗りこんだら、
大量のひよこ!
じゃなくって、黄色い帽子をかぶった1年生の大群。
遠足なのねーと思って、ながめる。
ゆれる電車に体を揺らしおっとっとと。
みんなで手をつないだり、服をつかんだり、連なりあっている。
必至に手すりにつかまろうとしてたり、電車が揺れるたびに「ぎゃー」「わー」って声があがったり、
見てるだけで面白い。

大量のひよこに囲まれて、
なんだか話しかけずにいられない
サラリーマンや、大学生の男の子や、スーツを着た女の子。
そう、黄色い帽子がまぶしすぎて、触れずにはいられない。
そんな気持ちは誰にでもあって、本当はみんな子供を社会の宝だと思っている。
だけどそれを表現する場所がないだけで、と思った。

ぴーちくぱーちくはしゃぐ子達をじっと見つめる。
あーこの子たちも20年たったら、すました大人になるのだなあ、と思ったら、
おかしくて笑えて泣けた。
私やこの電車に乗っている大人たちも20年前、30年前、40年前は
ほんのちいさな何もわからなくて何もかもが新鮮でしかたなかった子供だったのだ、
と思ったら、おかしくて笑えて泣けた。

子供たち!
たくさんご飯を食べて、たくさん眠って、たくさん笑って、たくさん泣いて、
たくさん水を飲んで、ゆっくりゆっくり歩くのだ。

なおしま

大きな街を走り抜けながら、歌をくちずさむ。
本当に大げさじゃなくって、私の体の中に、
小沢くんの歌は生き続けている。
それってすごいことじゃないですか。

左へカーブを曲がると光る海が見えてくる

と歌ったら、冬のはじめに見た
直島の海が目の前に浮かんで遠くへ飛んでいってしまいそうな感じになった。

かなり前だけど、直島に行った。
私はもう7年くらい直島に行きたいと思っていて、
何度も試みたのに行けなくて、
でもようやく行ったのだ。
牟礼にあるイサムノグチのアトリエに行って、直島に行って、
たくさんの作品に出会った。

高松から直島へ向かうフェリーは、本当に信じられないくらい幸せな時間で、
ときどきあのときのことを思い出しては、
私は多幸感に包まれてうっとりしてしまう。
フェリーの2階のデッキのベンチに座って、激しい風に吹かれながら、
金色に輝く瀬戸内海を眺めていた。
なだらかな山々が連なり、遠くのものは霞がかって溶けそうになっていたり、
手前のものは輪郭がはっきりしていたり、
山の連なりがこんなに美しい風景を生み出すなんて。
さらに手前の海は夕陽の光を受けてキラキラと輝いていて、
すべてが金色だった。
ううん、金色を何十にも塗り重ねたようなイメージ。
宮崎駿のナウシカの映画の最後のシーンで、
オウムの触角みたいなのに包まれるナウシカのシーンがあるでしょう。
黄金の中にナウシカが立つみたいな、あんな感じ。
世界中のキラキラした愛あるものに包まれた充足した感じ。
それくらい素敵なひとときだった。

イサムノグチのアトリエも趣味がよく、山あいの村に隠された桃源郷という雰囲気で素敵だった。
3年前大きな美術館で見たエナジー・ヴォイドは、蔵を改造したというアトリエで見るとなんだか小さく見えて不思議だった。
美術館で見たときはもっと威圧的で、それこそ膨大なエネルギーを放っているように見えたけれど、
ここでは、逆にエネルギーをじっと留めて蓄えている感じがした。
作品にはもちろん触ってはいけないけれど、
ある作品にそっとキスをした。
石を削ったその作品の質感と温度は、触れた部分を通して私の体に伝わり、私の体に足跡を残した。
いつまでも唇の触れた部分だけが、ひんやりと冷たかった。
彼の住んだ家の裏庭に小高い丘があって、登ったところから、牟礼の小さな村の風景が広がる。
柿の実のオレンジや、焚き火の煙がアクセントになった好ましい美しい風景で。
枯れた芝生の上に寝転がると、霞たなびくうす青い空が広がって、
私の五感は急に研ぎ澄まされたようになって、
急に叫びたいくらいの感覚に包まれた。
谷川俊太郎の詩に「なんでもおまんこ」っていうのがあって。
言葉の持つ衝撃に、ちがう意味で取り上げれることが多くて非常に残念だけど、
私はあの詩の意味をその瞬間強く強く思い知ったのだ。
空と大地に挟まれたときに、体中の感覚がするどくなって、
自然そのものに包まれて、本当に気持ちよくなってしまった。
ああ、この感覚を谷川俊太郎はあんな風に詩にしたんだ、ってわかって、
あの人すごいなーと思った。

地中美術館はやっぱりいれものがすごい。
それからジェームス・タレル!
この人の作品は金沢の21世紀美術館でも体験(そう!見たってゆーか体験!)したけど、びっくりした。
自分の体の感覚がなくなる感じ。
自分が絵の中に入っていって、その絵の世界観に溶けちゃいそうになる。
自分の体と感覚が別々のところにあるようなそんな不思議な体験だった。
大竹伸朗の「はいしゃ」はかっこよすぎた。
足を踏み入れた瞬間、異次元に迷い込んだかのようにめまいを覚えた。

現代アートは苦手、ではないと思った。
少なくとも私がここで出会った作品たちは、私の五感をつっつきまわして、
体中をつねったりひねったりした挙句に、私を知らない場所へ連れて行ってくれた。

なおしま、と口に出して言ってみる。
きらきら光る海とか、夕陽が見える埠頭とか、振り返れば満月が浮かぶ山とか、
なだらかな坂とか、瀬戸内海で採れるお魚とか、モネの睡蓮とか、切り取られた空とか、
静かで穏やかなペールトーンの海とか、
ばかみたいなアートのかけらとか、椿とか数字とか神社とか、うその自由の女神とか、
子供が残した落書きとか、青い部屋とか、穏やかで優しい気持ちとか、
少林寺拳法とか、赤や黄色のかぼちゃとか、なぜかカレーとか、世界中の海とか、
光とか風とか子供のこえとか、
私が好きなものばかりでできた愛おしいような島です。
いつかまた必ず訪れるだろう、大好きな島です。