なおしま | hirari

なおしま

大きな街を走り抜けながら、歌をくちずさむ。
本当に大げさじゃなくって、私の体の中に、
小沢くんの歌は生き続けている。
それってすごいことじゃないですか。

左へカーブを曲がると光る海が見えてくる

と歌ったら、冬のはじめに見た
直島の海が目の前に浮かんで遠くへ飛んでいってしまいそうな感じになった。

かなり前だけど、直島に行った。
私はもう7年くらい直島に行きたいと思っていて、
何度も試みたのに行けなくて、
でもようやく行ったのだ。
牟礼にあるイサムノグチのアトリエに行って、直島に行って、
たくさんの作品に出会った。

高松から直島へ向かうフェリーは、本当に信じられないくらい幸せな時間で、
ときどきあのときのことを思い出しては、
私は多幸感に包まれてうっとりしてしまう。
フェリーの2階のデッキのベンチに座って、激しい風に吹かれながら、
金色に輝く瀬戸内海を眺めていた。
なだらかな山々が連なり、遠くのものは霞がかって溶けそうになっていたり、
手前のものは輪郭がはっきりしていたり、
山の連なりがこんなに美しい風景を生み出すなんて。
さらに手前の海は夕陽の光を受けてキラキラと輝いていて、
すべてが金色だった。
ううん、金色を何十にも塗り重ねたようなイメージ。
宮崎駿のナウシカの映画の最後のシーンで、
オウムの触角みたいなのに包まれるナウシカのシーンがあるでしょう。
黄金の中にナウシカが立つみたいな、あんな感じ。
世界中のキラキラした愛あるものに包まれた充足した感じ。
それくらい素敵なひとときだった。

イサムノグチのアトリエも趣味がよく、山あいの村に隠された桃源郷という雰囲気で素敵だった。
3年前大きな美術館で見たエナジー・ヴォイドは、蔵を改造したというアトリエで見るとなんだか小さく見えて不思議だった。
美術館で見たときはもっと威圧的で、それこそ膨大なエネルギーを放っているように見えたけれど、
ここでは、逆にエネルギーをじっと留めて蓄えている感じがした。
作品にはもちろん触ってはいけないけれど、
ある作品にそっとキスをした。
石を削ったその作品の質感と温度は、触れた部分を通して私の体に伝わり、私の体に足跡を残した。
いつまでも唇の触れた部分だけが、ひんやりと冷たかった。
彼の住んだ家の裏庭に小高い丘があって、登ったところから、牟礼の小さな村の風景が広がる。
柿の実のオレンジや、焚き火の煙がアクセントになった好ましい美しい風景で。
枯れた芝生の上に寝転がると、霞たなびくうす青い空が広がって、
私の五感は急に研ぎ澄まされたようになって、
急に叫びたいくらいの感覚に包まれた。
谷川俊太郎の詩に「なんでもおまんこ」っていうのがあって。
言葉の持つ衝撃に、ちがう意味で取り上げれることが多くて非常に残念だけど、
私はあの詩の意味をその瞬間強く強く思い知ったのだ。
空と大地に挟まれたときに、体中の感覚がするどくなって、
自然そのものに包まれて、本当に気持ちよくなってしまった。
ああ、この感覚を谷川俊太郎はあんな風に詩にしたんだ、ってわかって、
あの人すごいなーと思った。

地中美術館はやっぱりいれものがすごい。
それからジェームス・タレル!
この人の作品は金沢の21世紀美術館でも体験(そう!見たってゆーか体験!)したけど、びっくりした。
自分の体の感覚がなくなる感じ。
自分が絵の中に入っていって、その絵の世界観に溶けちゃいそうになる。
自分の体と感覚が別々のところにあるようなそんな不思議な体験だった。
大竹伸朗の「はいしゃ」はかっこよすぎた。
足を踏み入れた瞬間、異次元に迷い込んだかのようにめまいを覚えた。

現代アートは苦手、ではないと思った。
少なくとも私がここで出会った作品たちは、私の五感をつっつきまわして、
体中をつねったりひねったりした挙句に、私を知らない場所へ連れて行ってくれた。

なおしま、と口に出して言ってみる。
きらきら光る海とか、夕陽が見える埠頭とか、振り返れば満月が浮かぶ山とか、
なだらかな坂とか、瀬戸内海で採れるお魚とか、モネの睡蓮とか、切り取られた空とか、
静かで穏やかなペールトーンの海とか、
ばかみたいなアートのかけらとか、椿とか数字とか神社とか、うその自由の女神とか、
子供が残した落書きとか、青い部屋とか、穏やかで優しい気持ちとか、
少林寺拳法とか、赤や黄色のかぼちゃとか、なぜかカレーとか、世界中の海とか、
光とか風とか子供のこえとか、
私が好きなものばかりでできた愛おしいような島です。
いつかまた必ず訪れるだろう、大好きな島です。