hirari -3ページ目

春を待つ。

金柑のコンポートをくつくつ煮ていて、
ああ、もう一年が経つのだな、と思った。


いちご、さくらんぼ、アメリカンチェリー、
キウイ、ブルーベリー、すいか、マンゴー、パパイヤ、桃、
デラウェア、甲斐路、いちじく、なし、りんご、かき、
みかん、金柑、伊予柑。


花ならば。
チューリップ、スイトピー、桜、パンジー、ルピナス、ライラック、
クレマチス、萩、ばら、ブルースター、紫陽花、朝顔、ひまわり、
コスモス、木の実、ダリア、トルコ桔梗、
椿、水仙、ラナンキュラス、梅、菜の花。


野菜ならば。
菜の花、春キャベツ、新たまねぎ、新じゃが、にんじん、
なす、きゅうり、トマト、とうもろこし、ズッキーニ、冬瓜、
里芋、かぶ、栗、かぼちゃ、
再びかぶ、白菜、大根、ゆず。


最近狂ったように食べているのが、菜の花で、
毎日手を変え品を変え、
ゆでたり、炒めたり、あえたり、混ぜたり、
なんやかんやとむしゃむしゃ食べている。
苦くて甘くていい香りで
体のすみずみが目覚めていくような感じがする。


会社の先輩が、
もう冬はいやだ、飽きた。
と言っていたのを
本当にその通りだと心の底からうなずいた。
今年の冬は雪が降らなくて、
それなのにとても寒かった。
なんだかずっとグレーの空がどこまでも続いていたような気がする。
エアコンのリモコンの電池が切れたのを私は買い足さなくて
家にいるときはいつもセーターを着込んで、
本を読むときも手紙を書くときも仕事をするときも
布団に潜り込んでいた。


もうすぐ春がくる。
春になったらギンガムチェックのシャツと、
グレーのシャツワンピースと、ブラウンのハイヒールを作りにいこう。
春になったらライトを買って、布団カバーを買い換えて、座布団カバーを作って、
家にたくさん人を呼ぼう。
春になったら京都に行って、西の友達に会って、
鴨川でお昼寝しよう。


まるで北国に住む人のように
じっと春を待ちます。

小説を書くということ

年下の友達が、
うちに泊まった置き土産に小説を残してくれた。
「書きたての小説を持っていくね」
と言われて、はて、と思っていて、
なんだかFDとか持ってきてくれるのかな?
とかよくわからない想像をしていたら、
A4の用紙にプリントアウトしたものを
ファイルに入れて渡してくれたのだ。


雪、のおはなし。
ポール・ギャリコの本を思い出しながら、
寒い夜に布団にくるまりながら小さな灯りのもとで読んだ。
様々な形の雪の結晶がしんしんと私に降り注いで、
でもそれは冷たくなくて、
肌の熱に溶けるように私の体に染み込んでいって、
それは熱というものを持っていないのに、
私の体を少しだけ温めてくれた。


彼女そのものだ。と思った。
彼女の人生、彼女の人そのもの。
言葉ひとつひとつが柔らかくて
白くて丸くて優しい彼女そのものだった。
そして、私は小説というのは、
その人の人生そのものを表すんだなあ、
となんだか感心してしまったのです。


そうして、昨日。
いつも夜な夜な飲みにつれていってくれる
会社の先輩が「小説を書いている」という話を聞いて、
私は不思議な気持ちがした。
本当に頭が良くて、仕事ができて、美しい文章を書く人。
ああ、この人は小説を書く人だったのだ、
と思って先輩のことが本当によくわかったような気がした。


私は小説を読むのがだいすきだけど、
小説を書こうと思ったことは一度もなかったなあ、
と不思議な気持ちになった。

人はどうして小説を書くのでしょう。

強い気持ちを。

出会ってから8年が経つ友人と
はじめてふたりきりで飲んだ。
あまーいワインを飲みながらね。
会社の話、仕事の話、子供の話、教育の話、
恋の話、反抗期の話、それから亡くなった人のこと。

仕事がよくできて、美人で、語学が堪能で、
明るくて優しくていつも笑顔、
みんなの学級委員!
みたいな彼女は、
私にとっては眩しすぎて、
どうやって何を話したら良いのかわからない、
とずっと思っていた。

だけど、眩しいくらいの輝きのなかには
闇があって、そこに彼女たる理由があったのだということを
初めて知って、強く心をゆすぶられたのだった。


そして人間の業の深さを思って、
底のない真っ暗な穴の中に
どこまでもどこまでも落ちていくような感覚に襲われた。
人の心の複雑さ。
そしてその複雑なものと複雑なものが絡み合うと
もうこんがらかってしまってどうにもできない。
人の心より美しいものがないと同時に
人の心より恐ろしいものはないんだと思う。


憎しみとか妬みとか
そういうものと無縁の人生であったらと思うけれど、
もう知ってしまったものは仕方がないよね。
そういうしがらみのなかで
いかにそういうものに負けないで生きていくか、しかない。
彼女も言ってた。
「不幸に負けてはいけない」と。


あらゆることに負けない強い気持ちを。
そしてその強さで家族や恋人や友人を守れるくらいの強さを。
不幸から生まれるものが不幸ではないように。


8時から飲み始めたというのに、
気づいたらもう電車のない時間になっていて、
消防車のランプがくるくるまわり、サイレンがうーうーいっている
静かな街を少しだけ歩き、
夏までにまた何度も会いましょう、と言って別れた。


私は今日の夜がこんなにも静かで深いものであったことを
神様に「ありがとうございます」とお礼を言って眠りについた。

シャイン・ア・ライト

ミック・ジャガーにキスしたい。


まあ、本当に魔女に誘われなかったならば

一生見なかった映画だと思う。
魔女はいつもそう。

私をまだ見ぬ世界につれていってくれる。

六本木ヒルズでビールを飲みながら

「シャイン・ア・ライト」を見た。
私はローリングストーンズを知らない。
どれくらい知らないかというと、名前しか知らない。
1曲もまともに聴いたことがないし、ボーカルの名前さえ定かではないくらい。
小説の中の青年が「ローリングストーンズ」を聴いている、
というのを読んだな、というくらい、私の人生とは無縁の存在。
そんな私が見ても、心から面白いと思える映画だった。


マーティン・スコセッシ監督が撮るローリングストーンズのライブ。
ただそれだけの映画なのだけど、
とにかくカメラのカット割り&編集がすばらしい。
そして何よりもローリングストーンズの

ライブパフォーマンスが最高にかっこいいのだった。
私は身悶えしながら、ときどき声をあげそうになりながら、
曲が終わるたびに拍手しそうになりながら、かなり興奮しながら見た。
3時間近い上映時間だったけれど、
終わってしまうのが惜しいくらいだった。

60すぎのミック・ジャガーはそれはもうめちゃめちゃかっこよくて、
体中からエネルギーが溢れ出ていて、
信じられないくらい美しい声だった。
セクシーで上品でキュート。
ぎゅーっと抱きついてキスしたいくらいに。


恵比寿の田吾作で焼き鳥をつついて熱燗を飲む。
私たちは彼らを褒めちぎり、
キャーキャーまるで女子高生のように感想を言い合った。
魔女は「彼らは妖精だ」と言った。
「人を喜ばすことだけを考えて、とってもピュアなのよ」と言った。
そして
「私も仕事がだいすきなの。だからあんな風にいつまでも楽しく
人を喜ばせるために仕事をしていきたいわ」と言った。
私も仕事が好き。
辛いけれど苦しいけれど、自分が情けなくなって逃げたくなることもあるけれど。


歌い続けること。踊り続けること。
その先にしか見えないものがあるのかもしれない。


後日、この映画の話をしたら、

うんと年上の男の人に、

「ストーンズはもっともっとかっこよかったんだよ。

あの映画を観てがっかりしちゃったよ」

と言われてびっくりした。

まじですか。

そんなの本当に惚れてしまいます。

本当は。

最近、びっくりするくらいテレビを見てて、
自分でもどうしたことか、と思う。
だけど、久しぶりに見たテレビは
前ほどつまらなくなくて、きちんと面白かった。


山田太一の「ありふれた奇跡」は、

見るたびに毎回泣いてしまう。
仲間友紀恵のへんてこな台詞まわしとか、
ちょっと野暮ったいカメラワークとか音楽とか、
気にならないことはないけれど、
そんなことを忘れてしまうくらい、
一生懸命見てしまう。


自殺未遂の経験がある男女が、ふたりして、
中年男性の飛び降り自殺を止めたのをきっかけに出会い、
惹かれあっていく。
たったそれだけの、
本当にシンプルなストーリーなんだけど。


主人公の加瀬くんが
夕方の公園でどうして自分が自殺しようとしたか
語っていて。
大学出て会社に入ったら、
落ちこぼれ社員になって、
上司に耳元に唾かけられながら、
罵倒されて、ひざまづかされて、
それでも自分はへらへらしていてそんな自分が情けなくて。
気づいたら倉庫で首を吊ろうしているのをおじいちゃんに
見つかって、病院に行ったら欝だと言われた。


私はたらたら涙を流しながら、胸をつかまれるような気持ちがした。
私たちは本当は本当に柔らかな心を持っているのに、
この世界は、私たちが柔らかな心のままで生きていくには過酷すぎるんだ、と思った。
私は過酷さに負けたくなかったから、
強くなりたいと願って、随分たくさんのことに耐えて努力した。

だから、仕事ができない、なんて努力が足りないとも思う。
そんなことが自殺の理由になるかな、とも思う。
私は強くなったぶんだけ、人に対して冷たい。

だけど、泣きながら搾り出すように語る加瀬くんを見て、
私は鬱になって会社をやめたいろんな友達のことを思い出した。
そして、耐えられない人は耐える必要がないのだ、と思った。
人のことをとてもじゃないけど責めたりできない。
だっておかしいのは世界の仕組みのほうなんだから。


私たちは自己責任で生きていかなくちゃいけないの?
仕事ができなくても就職できなくても人生の見通しが甘くても、
真面目で一生懸命であれば幸せになれるような
世の中であるべきなんじゃないのかな。


こんなドラマのような小さな奇跡が現実のものであったらいい、と思う。
私たちは、どんな私たちだって幸せに生きることが許されているのです、本当は。
こうした奇跡が全ての人に訪れて、
私たちの人生をそっと包み込んでくれますように。

レボリューショナリー・ロード

彼女は愛していなかったのかもしれない。


弟と一緒に新宿のトルコ料理屋でケバブを食べて
ぴかぴかのテアトルで映画を観た。
私は「アラビアのロレンス」を見たいといったのに、
「レボリューショナリーロード」を見ることになった。
タイタニックの悪夢を思い出していやだなあと思ったけど、
実際には見るに十分値する映画だった。


50年代のアメリカ、美しい夫婦が駄目になっていく話を
丁寧に丁寧に描いている。
不穏な雰囲気が連綿と続いていき、
夫婦が幸せそうなシーンでさえも私は息苦しく、
いつ暗雲が立ち込め、嵐が訪れ、落雷が起こるだろうと、
息を潜めてみていた。


エイプリルはもし、上手に堕胎できたなら、
ひとりで出て行くつもりだったのだろう。
彼女は結局、誰のことも愛していなかったのかもしれないな、と思った。
夫のこともふたりの子供のことも。
彼女が愛していたのは彼女自身だけだったんじゃないかと。


だけど彼女を責めることはできない。
どこにでもある夫婦の話なのだ。
誰だって、グレーのスーツだらけの満員電車、炊事洗濯の繰り返し、
平坦な日常に飽き飽きしているのだ。
「本当はもっと自分らしい生き方がここじゃないどこかにある」
と思っているのだ。
「パリに行く」というのは、エイプリルにとって
人生をやり直す最後の選択肢だったのだ。
私だって本当はここじゃないどこかで生きることを
心のどこかで夢見ているのだ。


エンドロールを見ながら
私は昔、話したことを思い出していた。
「どんなに変わってたりかっこいい人でも
子供ができたとたんに普通になっちゃうんだよね」
と言ってた男の人。
「みんな結婚して、子供ができて、
自分のしたいことを我慢して自分を押し殺して
つまんなくなっていく」
と友達の悪口を言うゲイの男の子。


日常に耐えて生きていくことができるだろうか、と思う。
それを苦とも思わないほど、誰かを愛したり誰かのために生きたいと
心から思えるのだろうか。
いやいやそもそも、私は今までだって日常に耐えて生きてきたじゃないの、
と思い直す。
私はきちんと日常を愛している、と。


ふと周りを見渡すと若いカップルがいっぱいだったけど、
この映画はどう考えたってデート向きではない。
弟はエイプリルのエゴイズムにご立腹で、
それはそれでとてもまともな男の子の反応だ、と思って面白かった。

新しいブックファーストに寄って
立ち読みしまくって、ほんの少しだけ本を買って帰る。


畠山美由紀10周年記念ライブ

涙あり、笑いありのちょーゴーカライブ。
特別ゲストでリリーフランキーが登場し、
みゆきさんと「ロンリーチャップリン」をデュエット。
アン・サリーとのハモリは
この世のものとは思えない美しさ。
永積くんは、みんなを躍らせて
会場をあっためてくれた。
最後の最後はみんなして立ち上がって拍手の嵐。
なかなかお目にかかれない素晴らしい光景だった。


まあそれにしてもあんなにも素敵に朗々と歌えたら、
どんなに気持ちがいいだろう、
とうらやましく思ったりしたけれど、
それを受け取って感動する気持ちが自分にあることも
素敵なことじゃないか、とも思った。

私には、
人を感動させるような美しい声も、
音楽を奏でる力もない。
小説を書くイマジネーションや根性もない。
パッションある絵を描くこともできない。
素晴らしい音楽や小説や絵を目の前にするとき、
私はいつも圧倒されて、その力をうらやましく思う。


だけど。
美しいものを美しいと感じられる。
それをしっかりと受け取って感動する気持ちが
自分自身にあるということも
素敵なことだね。
自分に感動する心があってよかった。
私には愛する音楽や小説や絵を素晴らしいとわかる心があってよかった。
これからも私はよきリスナーであり、よき読者であり、よき鑑賞者でありたい。

横浜トリエンナーレ


かがみ

横浜トリエンナーレは思ったよりもおもしろくて、
2日間とも駆け足で見すぎたと反省した。


現代アートは理解しがたいけれど、
おもしろいことは確かで、
よくよく見ていると、
文学や仕事や人生なんかと同じで、
見え方こそはちがうけれど、
そのものが備える本質みたいなものは一緒なのだと
わかるようになった。


作家のいしいしんじが、「まぐわい」と呼んだ、
そのダンスが美しくて、
私は一日中だって見ていたいと思った。
実際は一時間しか見られなかったけれど、
何度でも何時間でも見ていたいと思うような美しいダンスだった。

古今東西の静のキスを紡ぎ合わせて、動のキスにしたような。
一組の男女があるひとつの振り付けに基づき、
お互いのまぐわいを披露するというものであった。
手は髪を撫で、手と肩と胸と腰と足と太ももの付け根と尻を這う。
体は交互に上下に重なり合い、
唇は何度も遠ざかっては近づき、重ね合わせられる。
それは夢の中で妖精が戯れ合うのを
見ているような美しいダンスだった。
厳かな儀式を見ているような気持ちにさえなった。


踊っている女性の顔がキラキラしている、と思ったら、
彼女の瞳から涙が溢れていたのだった。
確かに、こんなダンスを心をこめて踊っていたら、
私だってきっと涙が止まらなくなるんじゃないかな、と思う。


私はダンスのことはよくわからない。
だけど、ダンスの型というものを咀嚼して体で表現しきったとき、
自分自身がダンス、そしてその本質そのものに
なったりするんじゃないだろうか。
その興奮とか心の震えに
涙が溢れたんじゃないだろうか、と思った。


私たちがそのダンスを食い入るように見ていたときに、
突然おばさんの怒鳴り声が響く。
「こんなものを公共の場でやるなんて、おかしい、不愉快だわ」
確かに、子供連れのお母さんや、おじいちゃんやおばあちゃんは
目のやり場に困って、「まあ」とか「やらしいわあ」

とか照れたひとりごとを言いながら立ち去る。
5歳くらいの女の子がお母さんとお父さんに連れ去られそうになりながら、
でも「見たい!」「見たいの!」と言っていたのが印象的だった。


一見、セクシャルでしかないこのまぐあい。
そう思われても仕方ないけど、
だけどああ、10分だけしっかり見てみてみたら。
そうしたら、これは美しいダンスだとわかるんじゃないかしら。


格子越しに口を開けて眺めるおじいちゃんも、

「もっと見たい!」とぐずる女の子も、

「不愉快よ!」と怒鳴るおばさんも、

それを見ておもしろいなーと思いながら

ばかみたいに真剣にダンスを見る私たちも

すべてが作品の一部。


霧によって覆い隠されるものと、はっきりと見えてくるもの。
濃密で幽玄な白の世界にくっきりと射さす光の道。
ゆっくりと落下する電球が魅せる目がくらむような闇の中の光と、静かな弦音楽。

何を読んでも二番目にでてくるのはいつでもあなた:悲しみのセックス。
破壊的に割られた鏡に映る分断された自分の姿。
ベイビー・マルクスのキッチュでワクワクする予告編。
海に並ぶ少年たちの、見ざる言わざる聞かざる。
クールなキャンドルセレモニー。


人が作ったものをつまらないなんていうのは
簡単なことだけど。
きちんと向かい合ったら
本当につまらないものなんて
存在しないんじゃないかとも思います。

冷たくて大きくてうるさい

家のカーテンと電気傘とベッドサイドの本棚を探し中。
部屋が完成するまえに、私はまた飽きて出て行くんじゃないかと思う。


だけど、通勤路はぞくぞく開拓していて、
会社まで自転車で行ったり、バスで行ったりして、
毎日いろんな道を通っている。
それはいまの自分の気持ちにとても寄り添う行為だと思う。


そうして、バスに乗っていたら、
懐かしい道を通ったのだった。

それはもうだいぶ前に付き合っていた人が
いつも車で送ってくれていた道だった。
私はあの時に通った道のこんなに近くに住んでいたことに
本当にびっくりした。


最近どこへ行っても、
「あ」と思ってしまう。
ここはあの夏の夜に歩いた道、
ここは冬にシャガールを見たところ、
ここは何度も乗った観覧車、
ここは初めてのデートでカキを食べた場所、
ここはあのときの駅。
どこへ行っても何をしていても
ここには私の思い出であふれすぎている、と思った。
たくさんの人たちが私の上を通りすぎていったのだった。


そして思った。
ここは私のふるさとなんだ。と。
私のふるさとと呼ぶにはあまりにも
途方もなく大きくて細かくて混沌とした場所。
だけど私は30年という人生のほとんどをここで過ごしてきた。
だからどこへ行っても何をしていても
思い出でいっぱい。


東京は人が冷たい、とか
東京は疲れる、とか
東京を去っていつか自分のふるさとへ帰りたい、とか
そんなことを友人たちが言うたびに
私は胸がちくちくしていたけれど、
それは私のふるさとが東京に他ならないからでした。
私のふるさとを悪く言わないで、と思っていたのでした。
地方から出てきた友人にとっては
冷たくて大きくてうるさい東京砂漠かもしれないけれど、
人生のほとんどを東京で過ごしてきた私にとっては
東京こそがふるさとなのだった。


冷たくて大きくてうるさい東京そのものが
私のふるさとで、
私はその冷たくて大きくてうるさいものに抱かれて
思い出を垢のように蓄積させ心にこびりつけ
これからも生きていくのだ。

いしいしんじトークショー

小説的に生きる。
私は小説を書かないので、
それがどういうことなのかわからないけれど。


だけど、いしいしんじが
「自分自身が小説そのものになっている」
というのはわかるような気がした。
さらに今回のいしいしんじの新作を読んで
ああ、いしいさんはもはや小説そのものになっているのだ、

とはっきりと思った。


いしいしんじがその場小説というのを最近やっていて、
私はまだ2回しか聞いたことがないけれど、
それはそれは不思議な体験だった。
私はいしいしんじに触れたことがないけれど、
彼に触れたら、ものすごい渦に巻き込まれて
彼の小説の中に入り込んでしまうんじゃないかと思った。


いしいさんの物語は人間の営みとか、生きるということを
まるで蚕が絹糸を紡ぎだすかのように、
彼の体の中から生まれる物語を語っているのだと。
だからこそ彼の物語は残酷なのにどこか温かくて、薄っぺらいところがない
ノンフィクション以上に真実を伝えてくれる。


「本を書くというのは

一瞬一瞬100%を出し切らないといけなくて

苦しそうだなあと思いました。
それでもつづけていくひけつをおしえて下さい」
という読者の問いに対して。

「自分には自分以外の世界に対しては

それしかできないという自覚をもつこと」
といしいしんじは答えていた。


私は小説家ではないけれど。
これくらいの覚悟で生きていかなくちゃいけないんだ、本当は。
と思った。
私の仕事なんて取るに足らない仕事ですが、でも。
仕事をするにも、人を愛するにも、
自分には自分以外の世界に対してはそれしかできないという自覚をもって、
生きていかなくてはいけないのだと。
自分が生きているという証をとめどなく流れていく時間のなかに刻み付けるには
そうやっていくしかないのだと、思ってなんだか泣けてしまった。


トークショーのなかで

いしいしんじが絶賛していた、よしもとばななの新作。

よしもとばなな、久しぶりに読んであぜん。

いろんなことを吹き飛ばしてしまうすごい話だった。

ラストに向かって私の胸は高鳴り震えた。

悲しくて、でも悲しいだけれはない魂の救済の物語。

読んだ後、何日も衝撃が心と体を捉えていて、

私はこの本のことを何日も考えていた。


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