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夏休み

夏休みは、

感動的においしくて洗練されたランチを食べたり、

秋のお買い物でマントを買ったり、

ずっと観たかった「スティング」を観たり、

おうちでおしゃべりしたり、

世界でいちばん美しい海で泳いだり、

星空の下でお酒を飲みながら歌ったり、

流れ星を浴びて波の音を聞きながら眠ったり、

カヌーをしたり、

カニやヤドカリと遊んだり、

バラのお風呂に入ったり、

朝日とともに目覚め、夕日とともに夕食をいただき、

まるでお姫さまのような1週間でした。


好きなことだけして、

好きなものに囲まれて、

幸せすぎた。


夏休みが終わったら、

夏と秋の境目がわからないまま、

気づいたら秋の真ん中でした。

美しさ

親しい友人たちと久しぶりに食事をする。
ひとりが、東京で働くことをお休みして実家に帰るというので、
その送別会みたいな感じ。

どうして、こんなにも長い間この3人で会わないでいられたのか信じられないと思った。
本当に本当に大切で大好きな友達。
アヴァンギャルド・チャイナ。
イントゥザワイルド。
ふたりの女の子の話。
思い思いに自分の意見を言って、
その意見はちがうけど、すごくよくわかる。
頭がくるくる回転して、言葉が次々と出てくる。
シンパシーの気持ちでいっぱいになって、心と身体が満たされる。


二年前の私たちは、たくさんの映画を一緒に観て、
旅行しておいしいものを食べ、
ばかみたいにお酒を飲んで、
一晩中むかしの歌を歌って、
本当に本当にたくさんのことを話した。
話しながら子供みたいにわーわー泣いたり、
おなかがよじれるくらい笑ったり、
大人気ない大声を出して怒ったりした。
あのときのことを思い出すと涙が出てくる。
楽しくていとおしい時間だった。
私の人生に訪れた、最後の「青春」のひとときだったと思う。


人と心がつながるということ。
それが、人生において最も幸福なことだと私は最近思うのだけど、
この3人でいると何度もそういう瞬間があった。


美しさ。オーベイビー。
ポケットの中で魔法をかけて。
心から。オーベイビー。
優しさだけが溢れてくるね。
くだらないことばっかみんな喋りあい。
町を出て行く君に追いつくようにと強く手を振りながら。

いつの日か。オーベイビー。
長い時間の記憶は消えて。
優しさを。オーベイビー。
僕らはただ抱きしめるのか?と。
高い山まであっというま吹き上がる。
北風の中 僕は何度も何度も考えてみる。


仕事をしていても、昨日のことばかりが繰り返し波となって押し寄せて、
何度も何度も泣きそうになった。
私の心の中には小沢くんの「美しさ」バージョンが何度も頭を駆け巡り、
体中からあふれ出す優しさとか悲しみとか愛おしさをとどめるように、
涙をこらえ、ため息をつくしかないのです。
あんなにも楽しくて美しかったあの時間の中に生きられたことを
幸せに思う。

そしてあのとき予感がしたとおりに、
私は二度と戻らない美しい日にいたのだと思った。
静かに心は離れていく。
だけど、私の心の中にはいつもいつもずっとずっと2人がいつづけて、
私の心は彼らとつながっているような気がする。


ミリオンダラーベイビー。雨。マチルダ。ウィスキー。オジョリ。花火。浴衣。ビデオ。
ドゥマゴ。京都。夜のミッキーマウス。あのひとがきて。あきるくらいの紅葉。いづう。
新幹線とビール。ゆれる。水道橋のファミレス。立川談春。ジンギスカン。
オリバー・ツイスト。ホテルルワンダ。ファームグリル。
目黒川の桜。隅田川の桜。あきるくらいの桜。自意識と愛と水。


だいすき。

「百万円と苦虫女」タナダユキ

友人と食事でもしようかと電話をしたら、

いま実家に帰っているのだ、と彼は言った。

親しいお友達が高波に飲まれて亡くなったのだという。

故人は学生時代の友人で、私は会ったことがないけれど、

何度となく話に聞いていた女の子だった。


夏の終わりの警備員のいない海で泳いでいたら高波にさらわれたこと。
もうひとりの女の子はかすり傷だけで助かったこと。
泣きたいけど、泣いちゃいけないと思って泣いていないこと。
彼女が死んだことがまだ信じられない。
友人から電話がかかってきて、彼が泣いていたこと。
友人にメールしたら、「彼女は親不孝だ。残された人たちはこの悲しみをどうしたらいいというのか」という返事が返ってきたこと。
今回のことで、自分は悔いなく生きなくちゃいけないと思ったこと。


とつとつと語る彼の話を聞いて、私は彼の語る故人の姿しか知らないけれど、涙が出た。
本当は彼女のことを知らない私が泣いたりなんかしちゃいけない、と思ったけど、
泣いていない彼と泣いた彼のことを思ったら悲しみが流れ込んできて、 耐えられなかった。
そして突然、すごくすごくすごくすごくすごくすごくすごくすごくすごく怖いと思った。
波が、嵐が、地震が、病が、何か得体の知れないものが、私の大切な人を奪ってしまう。
話している友人や、会えていない友人や、大好きな人や、家族が突然どこかに消えてしまうことを考えて、途方もなく絶望的な気持ちになった。
こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい。
そして、私は話している友人に対してもごめんなさい、と思った。
彼はどう考えたって私の大切な友人なのに、大切にできていないと思った。
それから生きることをわかっていないくせに、「死にたい」とか言うやつは大馬鹿やろうだ、と思った。
十分に生きてもいないくせに死にたいなんて100万年早いんだよ。
自分がどれだけ人に愛されて大切にされているかわかっていないのだ、と思った。

どうしてそんなこともわからないの?と思って、電話を切ったあと、わんわん泣く。


ひとりきりで部屋にいるのに耐えられなくなって、

雨が弱くなるのを待って 長靴を履き、 街へ出かける。
人との話に出てずっと見ようと思っていた「百万円と苦虫女」を見た。
蒼井優はやっぱり天才だ。
彼女のような細い手足と首が欲しいなあ、とため息をつきながら見る。
百万円貯めたら、この街を出て次の街へ行く。
人と深く関わると面倒くさいことに巻き込まれてしまうから、

それがイヤだから深く関わりそうになるとそこから逃げるような生き方を選ぼうとする。
だけど、そんな風には生きられないのだ、だれも。
私は同じ場所で生きているし、ずっと同じ会社にいるけれど。
でも主人公の鈴子に少し似ているところがあるように思った。
意外なことに小学生の弟がキーワードになっていて、

ふたりが手をつないで家に帰るシーンは泣けてしまった。
予告では森山未来くんとつきあうところが山場なのかと思っていたら、

ちゃんとその後まで描かれていてよかった。

そしてつまらない感傷に流されず、つまらないハッピーエンドでないところも。
そうよ、鈴子、あなたはまだ若いのだから。と思う。
若い物語で、もう30になってしまった私にはちょっと物足りないけれど、

あー若いってこういう感じって思ったし、それを十分に描いている作品だった。

無駄なシーンなどなく、どの出演者も好演していて、完成度が高い。


それにしても私も本当は苦虫女で、

本当はこんな風に自分に素直に生きていけたらどんなにいいだろうと

思いながらもう30にもなってしまって。

職業病もありながら、作り笑いばかりして、

言いたくないことや思ってもないことばかり言って生きている私は、

このあとどれくらいこんなことを続けていけるのか、

いったいどうなってしまうのだろうと、少しだけ悲しくなった。


傘が邪魔だと思って、映画館に寄付して映画館を出たら、

雨が降ってきて、結局かさを買うことになった。

ブックファーストがなくなってから

(移転したブックファーストはぜんぜん好きになれなかった)、

私は夜の渋谷で行き場所がなくて悲しい。

夜の9時とか10時とかで、でもまだ家に帰りたくないとき、

私はどうしたらいいの?と思う。


リブロまで行ってみたらもう閉まっていて、文教堂に行った。

じゃんじゃん降る雨の中、あー長靴を履いてきてよかったと思う。

雨の日の私は使い物にならないけど、長靴があれば少しはまし。

ちゃんと歩ける。


文教堂は広いけどなんだか陰気な感じがして

ぜんぜん好きじゃなかったけど、

最近ずっと探していた本が3冊もあってびっくりした。

もとやコーヒーで十番を飲みながらカウンターで本を読もうと思ったけど、

大きな窓から雨に濡れた街が見えて、

結局それを眺めていたらあっというまに閉店時間になった。

ツタヤでビデオを大量に借りて帰る。


夜しか活動してないくせに、

家に帰ったらぐったりしてしまって、ベッドに倒れこむ。
雨の音を聞きながら眠る。

雨の日は使いものにならない。

雨の日は使いものにならない、
というのは自分のことで、
雨の日の私はお風呂が嫌いなのに、

無理やりお風呂に入れられた子猫みたいに、
うまく歩けなったり、寒がったり、鼻が利かなくなったりする。
ノースリーブで出かけたら、すごく寒くて、でもすぐ夏のお天気に戻ると思ってたら、
ポツポツと雨が振り出した。


その雨の様子を言葉で表してみる。
しゃんしゃん
とつとつ
さらさら
しゃらしゃら
さーさー
どれもしっくり来ないわね、と言いながらランチ。

イタリア菓子のお店でデザートまでがフルコースのランチを食べた。
ビシソワーズ
5種類の前菜の盛り合わせ
いちじくと生ハムの赤ワインリゾット
仔羊のロースト赤ワインソースぞえ
前菜デザート
メインのデザート
ハートのカプチーノ

渋谷に戻ってきて、紀伊国屋に行こうと思ったらビルがお休みで、
ブックファーストに行ったら探しものの本は一冊もなくて、
リブロに行く元気はとてもじゃないけどなかった。
やっぱりタワレコに行く元気もなくて、HNVでCDを買って、
ツタヤに寄ったら、借りたいDVDは全部貸し出し中だった。
「百万円と苦虫女」を見るにはまだ時間がありすぎて、
家に帰ることにした。
この夏最後になるんじゃないかと思うひまわりを5本買って、
本当はヴィロンでバケットを買いたかったけど、そこまで歩く元気がなくて、
ドゥマゴでバケットを見たら長すぎて持って帰るのがイヤになって、
コンパクトなパンドゥミを買って電車に乗る。


帰ってから読書。
本を読みながら、オリンピックを見て、すこしまどろんだ。

アサリのパエリヤのおにぎりと
まるごとトマトとかきたまスープ、コリアンダーそえで手抜きの夕ご飯。
デザートは桃。
昨日行ったスーパーでいちじくが700円から500円になっていたのを思い出して、
桃がそろそろいちじくに変わるのだな、と思う。

お風呂に入りたくなかったけど、お湯をためたお風呂に入って本を読み、
髪も体もきちんと洗った。歯も磨いた。


「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」
はとても切なくて息苦しいような気持ちになった。
次の本を手にして、少しだけ読んで眠りについた。

Happy Birthday

朝起きてまず買い物に行って、

自転車がよろよろするくらい大量の
野菜とお肉とアサリと果物を買った。
アサリを砂抜きして、
ナスをグリルして、
カブとアスパラとオクラとエビをゆでて、
ナスと一緒にオリーブオイルで和えた。
手場先をぐつぐつ煮て、
そのあいだに部屋中を掃除して
干しっぱなしの洗濯物を取り込む。
小麦粉と卵と砂糖をよーく混ぜて冷蔵庫に寝かせる。
ニンニクをつぶして、タマネギをみじん切りにする。
手場先の火を止めて、寝かせていた生地を薄く焼いてクレープにする。
クレープがさめるまでの間に、生クリームを泡立て甘露栗を刻んで混ぜて、
ニンニクとタマネギをオリーブオイルで炒める。
それからシャワーを浴びる。
キャミソールとパンツのままで、クレープに栗クリームを塗って、クレープを重ねて栗クリームを塗って、
を繰りかえす。
ノースリーブのサマーニットとモノトーン柄のスカートを着る。
チョコペンで「Happy Birthday」と書く。

主役登場。
今日はごちそう!
前菜はカブとアスパラとオクラとナスとエビのマリネ。
メインは手場先のバターナンプラー煮込み。
パスタはアサリのパエリヤ。
デザートは栗のミルクレープです!

川内倫子写真展「Semear」

春先のある晴れた日に、川内倫子の写真を観るためにFOILのギャラリーへ出かけた。
休日の馬喰横山は無人街のように静かで、私は道に迷って同じ道をぐるぐるまわりながらギャラリーへ辿り着いた。
アルゼンチンの人々を撮った、という写真はそうと言われなければ、アルゼンチンだとは気づかないような写真ばかりで。だけど、そこからはざわめきやにおい、てざわりが伝わってくるようなものばかりだった。


夜のスタジアムの人々を撮った写真からは歓声とかすかな興奮が伝わってきたし、まるでケーキに刺さるローソクみたいにカラフルなマチ針が刺さった針山はおしゃれなおばあちゃんのものみたいだったし、じっとこちらを見つめる外国人の子供は何かをしゃべりだしそうだったし、旋回する飛行機の窓から見えるのは森と川。


ギャラリーをあとにして、目を閉じたら夜のスタジアムの写真が浮かび上がってきて、かすかな歓声が聞こえた。 世界中どこに行っても、かわらない日常みたいなものがあって、川内倫子はそれを切り取って私たちにニュートラルな態度で示してくれる。


写真展はあまり行かないけど、絵画と同じで、オリジナルを見ることの大切さを思い知った気がした。写真集で見るそれとは全然ちがうのだ。色も大きさも存在感も。



何年かまえの夏の初めのころ、会社を早引きしてカルティエ展に行った。
もとはといえば、好きな作家が絶賛していた展覧会だから見たくなって、開催時期の終了間際に急いで出かけたのだった。

よく晴れた日の午後で、清澄白川の駅から近代美術館まで歩いた。
私は黒いワンピースを着ていた。


どれもこれもがおもしろくって、不思議なものばかりだった。現代美術の魅力を私は十分に理解する力を持っていなくて、わからないものばかりだったけど、まるで遊園地に初めて来た子供のように何もかもを素直におもしろいと思った。

すべてを十二分に見るのは時間が足りなかった。


最後の最後、閉館間際に川内倫子の「Cui Cui」というスライドショーを見た。彼女が家族の記録を写真に撮ったものをスライドにし、それにピエール瀧が音楽をつけた作品で、私は釘付けになったのだった。
川内倫子の写真はなんといまの時代の私たちの心にフィットするのだろう、と思った。色あせたようなでもしっかりと鮮明な写真は、懐かしく切なく、心の奥底にずっとあったのに忘れていた思い出のような色をしていた。そして、毎日の生活を切り取った1枚1枚は、あたりまえの風景を再認識させるようなものだった。


現代アートをさんざん楽しんだ最後に私が見た川内倫子の写真は、それまで見ていたものを一気に吹き飛ばしてしまった。
現代アートというのは、映像や立体物や新しい素材といった、今までの美術手法とは異なる手法を編み出して、新しい表現を試みているものだけれども、結局私がいちばん心に残ったのは写真という超アナログな表現方法で表現した作品だったのは皮肉というかおもしろいことだなあと思った。
そして、川内倫子の写真はそのアナログな手段をとりながらも、まったくもってきちんと新しい表現をしていたのだ。


帰りに行列のできる居酒屋に行って、モツを食べてワインを飲んで、その日見たものの感想をたくさん話したけれど、ワインを飲みすぎたせいで、話したことのひとかけらも思い出せない。

だけど、あのとき見たものや感じたことはいまもこうやって思い出せるということに、作品の力を感じずにはいられない。


「Cui Cui」の写真集が欲しかったけど、その日は荷物になるから、と買わなかったけれど、後日、本屋で買い求めたそれは、もちろん実物のスライドショー作品ほどの鮮やかさを持たないが、休みの日の午後や、夜寝る前にふと開いては眺めてみている。

うつくしいひと

細く白い肩を見ていて、
私はこの細い肩に負けたんだなーと思う。
細い肩、すっと伸びた腕、手入れの行き届いた指、なめらかな肌、まるみがありながらもとがったあご、大輪のバラの花びらが零れ落ちるかのような笑顔。
圧倒的に美しい人を目の前にして、私は一瞬、言葉を失った。
そして見とれた。
そしてこんなに美しい人ともうこれ以上、私は戦うことはできないわ、と思った。
これ以上戦おうとしたら、私は壊れてしまうと思った。

そして言葉を失うような美しい女の人を目の前にして、
私は久しぶりにきれいになりたい、と思った。

女がきれいになりたいと思うのは、
男にふられたときではないと思う。
圧倒的に美しい人を目の前にしたときだと思う。

まるで恋をした男の子のように、美しい人の肩や笑顔が私の脳裏に焼きついて離れない。

さて。
きれいになりたい私がどうするか。
チョコラBBでもエステでもお化粧でもショッピングでもなく。
毎日、自分でごはんを作って食べて、朝顔に水をやり、たくさん水を飲む。
そして本を読み、お風呂に入って、身体を柔らかくして、たくさん眠るのだ。
毎日をきちんとていねいに健やかに生きる。
それが今の私にできる精一杯の努力かと思う。

ワンデートリップ

朝に近い夜に家に帰って、ドライブへ出かけた。
お盆だけど、朝早くの高速はすいている。
だんだんと明るくなっていく車窓を見ていたら、
目覚めていく街がビュンビュンと流れていった。

何度この道を通っただろう、と思う。
坂道をくだるときの左右に広がる住宅地と川の感じ、
左右におもちゃみたいに並ぶ密集した住宅地、
オープンカーだと息を止めなくちゃいけないオレンジのトンネル、
トンネルを越えると山あいに登場する村と工場たち、
ジェットコースターみたいに急で大きなカーブを曲がると見えてくる真っ青な海と空、
ずーっと海が見える海岸道路(本当にこの道が好き!)、
そして海水浴場がある小さな色あせたリゾート地をいくつも超えていく。

あードライブが大好きだ。

途中、漁港がある小さな街の朝市で、
金目鯛の釜飯とあら汁と握り寿司とあじの焼いたのを食べた。
ひさしぶりに血の通った、おいしいものを食べた気がする。

そして、本当に久しぶりに海水浴した。
ほとんど海に入らず、パラソルの下でずーっとお昼寝してたけど、
波の音と人の声と海の家の音楽がうるさいようで、
ちゃんとハーモニーになっていて、心地よかった。
お昼ごはんを食べたテラスからは白い砂浜と目が痛くなるくらいの鮮やかなブルーの海と空がまぶしくて、ああ、来てよかった、と思った。
人が多くてやんなるくらいだけど、まあそういうほどでもない気がしたし、
高いところから見ると、たくさんのカラフルなパラソルがキレイでかわいくて、
すごく絵になると思った。

飛び込みで泊めてもらった民宿は、おばちゃんたちがやってる小さくてふつーのおうちみたいなところ。
6畳のタタミのお部屋だけど、すみずみまで掃除してあって、
私は実はこういう民宿が大好きなのです。
夕飯は地魚たっぷりのお寿司。
どうかしらーと思ったけど、どのお魚も新鮮で、堪能。

そして、食後のコーヒーを目指してドライブしていうちに、
私たちは闇の向こうの夜の国ヘ迷い込んだのでした。
そう、そこに流れている空気は、まるで外国のバックパッカーが集まるアジアの小さな町のようだった。

インドのバラナシの、タイのバンコクの、中国の陽朔の。
小さくて優しい光だけで照らされていて、フレッシュフルーツを使ったカクテルの飲めるバーや、ベトナム料理や、ピザやさんや、ブラックジャックのゲームが楽しめるコーナー、小さな屋台が集まっていて、外国人がいっぱいいて。
正面の小さなステージではライブが行われていて、
私はすっかり心を奪われてしまった。
よく日焼けした青年がギター1本で、次々と音楽を奏でる。
私は洋楽には明るくないので、わからないものばかりだったけど、知っている曲がいくつか。
まずギターが上手すぎる!音もいいし、テクニックもすごいし、ギターというより音楽なのです。
多彩なメロディーを奏でるから、ギターの弾き語りというか、もっと複雑でふくらみがあって音楽の弾き語り、って感じ。
で、そのアレンジも素晴らしい。
歌はすっごいうまいわけじゃないけど、とても素敵な声。優しくてセクシーで温かい声。
こんなところでこんなにすごいものが聴けるなんて!という驚きとともに、
もうただただいつまでもここで彼の音楽を聴いていたい、という感じでした。

演奏が終わって、私は人見知りなので自分から話しかけたりはしないのだけど、
でも、この人はただものではない、どういう人なのか知って帰らないとゼッタイに後悔する、と思って、
人づてにお願いして、直接お話した。
なんと彼は17歳でした!
信じられない!
こんな17歳ってありえない!
外国暮らしが長くて、日本語よりも英語が得意な男の子。
話してみると、あどけない表情もあって、ああ、17歳だわーと思った。
もう所属事務所が決まっていて、東京のカフェでライブもしているという。
じゃあ、今度はそのカフェに行きますね、と約束して

闇の向こうの夜の国を後にした。

まるで物語の中に迷い込んでしまったかのような心地で、
現実の世界に戻れないんじゃないか、
と私は口に出して言わなかったけれど
実は密かにそう思っていた。
しかし、車は闇を飛び越え、
無事、というかがっかりというか、賑やかなリゾート地に戻ってきたのでした。
はてしない冒険のはじまりかと思ったのに残念。

日本にはまだまだ有名ではないけれど、
すごく素敵なところがあって、外国人のバックパッカーの方が
よく知ってるんじゃないかと思った。
ロンリープラネット日本版の日本語版を求ム!
とゆーか英語で読めよ、わたし。

写真もお土産もなくて、
私に残ったのは、
夏の海の気だるさと、心に刻み付けられたギターのリズムと、
日焼け止めを塗り忘れた太ももの付け根の日焼けの真っ赤なあと。

夏です。

また会う日まで ジョン・アーヴィング

読み終わった。
すごい。すごい物語だった。
今年読んだ中でいちばんかもしれない。
いえ、今まで私が人生で読んだ物語のなかで最も魅力的で、元手がかかっていて、いろんなことを考える機会を与えてくれた物語かもしれない。
筆力も構成力も、描写力も、登場人物の描き方も、設定も、何もかもが素晴らしすぎる。
こんなにも夢中になって本を読んだのは久しぶりだ。

上巻1/2の物語が下巻1/2の物語の伏線になっていて、
それが物語に膨らませ、厚みを与える。
下巻に入ると私の読むスピードは2倍にも3倍にもなり、
終わってしまうのが惜しいという感覚にとらわれた。
最後の1章は、8月の長い夜のためにとっておいて、
一刻も早く読みたいのを我慢して、家に帰って、着替えて、食事を作って、食べて、電話をして、
読書灯だけにして、それから読み始めた。

涙が止まらなかった。
こんなにも長い物語の末、用意されていた結末。
この結末のために主人公のジャックはこんなにも寂しい人生を生きてきたのだ。
最後の1章は、もう初めから終わりまで泣きっぱなし。
こんなにも物語が長かったからこそ、私は彼の人生を一緒に生き、泣いたのだと思う。

父と対面した瞬間、
壁に貼られていた写真をみた瞬間、
弟と妹のかたらい、
幸福を手に入れた者は不幸だったときに思いもつかなかったことを考えるものだという一文、
「皮膚のすみずみまで愛している」と言った瞬間、
「おれには息子と娘がいる!」と歌った瞬間。

彼はこんなにも愛されていた!

その圧倒的な事実に涙が止まらなかった。
もう一度、昨年の秋のyomyomを引っ張り出して、太田光の書評を読む。
もとはといえば、この書評を読んで、「また会う日まで」を発売日に買ったのに、
上巻の1/3だけ読んで、ほったらかしにしてあったのだ。
そしてもう一度泣く。
書評には「さよならを言いたくなかったら言わなくてもいい幸せ」というのが書いてあって、
昨年秋の私はこの言葉に泣いたのだけれど、
この言葉の真の意味や重みをぜんぜんわかったなかったのだと思った。
本当にばかなわたし。はずかしい。

いま改めて、太田光の書評を素晴らしいと思った。
私も太田光の意見に同意する。
この物語は「幸せを求める人たち」を描いた物語だ。

幸せがどういうものか、私は十分に知っている。
だけれども、私はそれを日々忘れてしまうし、
それを手に入れることは難しい。

手をつなぎたいと思って手を伸ばしたときにそこに手があること。
さよならをいいたくなかったら言わなくてもいいんだよ、また明日ね、と言ってもらえること。
愛する人と手をつなぎながらひとつのベッドでいっしょに眠ること。
自分の愛情を言葉にできること。
それを相手に伝えられること。
それを相手が受け入れてくれること。

ああ、これ以上の幸福があるだろうか!
幸せはこんなにもシンプルなものだ。
それなのに、私はいつも忘れてしまうし、手に入れがたい。
そう思ったら、もうまた泣くしかなかった。

滂沱の涙の波に揺られながら、気づいたら眠っていた。
朝目覚めると顔には涙が張り付いてて、瞼は重くはれていた。
だけど、心は長い旅を終えたときのようにずっしりと満たされている。
「また会う日まで」は私にとって大切な物語になると思う。
そして、本が、物語が、私のところに戻ってきた。
今ならどんなものでも読めると思う。
30歳になった夏、たくさん本を読もうと思った。
時間はたくさんある。
誰のものでもないすべて100%自分のために存在する時間が目の前にたくさん広がっていて、
それは途方もなく孤独だけれど、悪くないと思った。

渚のシンドバッド

あーとかうーとか

夜になるまで読書と惰眠を繰り返し繰り返した。
クーラーを入れずに開け放した窓からは少しだけ生ぬるい風が吹いてくる。
夏の気だるさに身体も脳みそも溶けそうだ、と思いながら、
「また会う日まで」を1章読んでは、目をつぶり、もう1章読んでは、溶けるように眠った。
もう夜も遅くなってから夕飯の買い物に行って、
温野菜にオリーブオイルと塩と胡椒ばりばりをふりかけて、
玄米ご飯に卵をかけて、
手抜きの夕ご飯。


そして『渚のシンドバッド』を見た。
あー若い感性とかがびりびりするような青春映画。
橋口亮輔が撮っていて、ゲイの男の子が主人公ではあるけど、
別にそれだけが主のテーマじゃない。
ゲイの話ってそればかりが先走って正当に評価されないのが残念で仕方ない。
初めて人を好きになったときのこと。
持て余す身体の気だるさ。
キスしたい衝動。
気持ちが伝わらないこと。
どうにもならないこと。
まだ何も知らないからこそ、美しくて醜い感情がすごくよく描かれている。
あーとかうーとか。

この女の子はスタイル悪いけど、存在感あるなーと感心して、
ぜったいに今活躍している女優に違いない、と思って、
そうしたら浜崎あゆみでした。
あらーと思う。
浜崎あゆみとかぜんぜん好きじゃないけど、
この頃のままだったら、意外と好きだったのかもしれないのに、と思った。