また会う日まで ジョン・アーヴィング | hirari

また会う日まで ジョン・アーヴィング

読み終わった。
すごい。すごい物語だった。
今年読んだ中でいちばんかもしれない。
いえ、今まで私が人生で読んだ物語のなかで最も魅力的で、元手がかかっていて、いろんなことを考える機会を与えてくれた物語かもしれない。
筆力も構成力も、描写力も、登場人物の描き方も、設定も、何もかもが素晴らしすぎる。
こんなにも夢中になって本を読んだのは久しぶりだ。

上巻1/2の物語が下巻1/2の物語の伏線になっていて、
それが物語に膨らませ、厚みを与える。
下巻に入ると私の読むスピードは2倍にも3倍にもなり、
終わってしまうのが惜しいという感覚にとらわれた。
最後の1章は、8月の長い夜のためにとっておいて、
一刻も早く読みたいのを我慢して、家に帰って、着替えて、食事を作って、食べて、電話をして、
読書灯だけにして、それから読み始めた。

涙が止まらなかった。
こんなにも長い物語の末、用意されていた結末。
この結末のために主人公のジャックはこんなにも寂しい人生を生きてきたのだ。
最後の1章は、もう初めから終わりまで泣きっぱなし。
こんなにも物語が長かったからこそ、私は彼の人生を一緒に生き、泣いたのだと思う。

父と対面した瞬間、
壁に貼られていた写真をみた瞬間、
弟と妹のかたらい、
幸福を手に入れた者は不幸だったときに思いもつかなかったことを考えるものだという一文、
「皮膚のすみずみまで愛している」と言った瞬間、
「おれには息子と娘がいる!」と歌った瞬間。

彼はこんなにも愛されていた!

その圧倒的な事実に涙が止まらなかった。
もう一度、昨年の秋のyomyomを引っ張り出して、太田光の書評を読む。
もとはといえば、この書評を読んで、「また会う日まで」を発売日に買ったのに、
上巻の1/3だけ読んで、ほったらかしにしてあったのだ。
そしてもう一度泣く。
書評には「さよならを言いたくなかったら言わなくてもいい幸せ」というのが書いてあって、
昨年秋の私はこの言葉に泣いたのだけれど、
この言葉の真の意味や重みをぜんぜんわかったなかったのだと思った。
本当にばかなわたし。はずかしい。

いま改めて、太田光の書評を素晴らしいと思った。
私も太田光の意見に同意する。
この物語は「幸せを求める人たち」を描いた物語だ。

幸せがどういうものか、私は十分に知っている。
だけれども、私はそれを日々忘れてしまうし、
それを手に入れることは難しい。

手をつなぎたいと思って手を伸ばしたときにそこに手があること。
さよならをいいたくなかったら言わなくてもいいんだよ、また明日ね、と言ってもらえること。
愛する人と手をつなぎながらひとつのベッドでいっしょに眠ること。
自分の愛情を言葉にできること。
それを相手に伝えられること。
それを相手が受け入れてくれること。

ああ、これ以上の幸福があるだろうか!
幸せはこんなにもシンプルなものだ。
それなのに、私はいつも忘れてしまうし、手に入れがたい。
そう思ったら、もうまた泣くしかなかった。

滂沱の涙の波に揺られながら、気づいたら眠っていた。
朝目覚めると顔には涙が張り付いてて、瞼は重くはれていた。
だけど、心は長い旅を終えたときのようにずっしりと満たされている。
「また会う日まで」は私にとって大切な物語になると思う。
そして、本が、物語が、私のところに戻ってきた。
今ならどんなものでも読めると思う。
30歳になった夏、たくさん本を読もうと思った。
時間はたくさんある。
誰のものでもないすべて100%自分のために存在する時間が目の前にたくさん広がっていて、
それは途方もなく孤独だけれど、悪くないと思った。