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畠山美由紀・bonobos・watching the sky

ブルーノートで白ビールを飲みながら

ゆるゆると美由紀さんのうたをきく。

昨日、COWBOOKSで見かけた松浦弥太郎が

目を見張るような美人の奥さんと一緒に来ているのを目の端に見る。

1曲1曲が短くて、もう少し聴きたいくらいだったねと

それでも満たされた気持ちで話した。

美由紀さんのうたううたを私はもう6年越しで聴き続ける。

それはとても素敵なことだなあ、と思う。

年をとって、私の中には本当に好きなものだけが残っていく。

彼女のうたを聴くたびに私は

早朝の海沿いのドライブや、

穏やかでおいしいブランチや、

漆黒の夜のダンスを思い出す。

私は40になっても50になっても60になっても

美由紀さんのうたを聴くたびに思い出すんだ。

もっと長い時間が経たないとわからないこと。

焦る気持ちをぐっと堪えて、焦ってはいけないこと。

どちらにしてもそこに大きな愛があったことには変わりはないのだ。

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彼女は宇宙。

かのじょはうちゅう。

ボノボの新曲に震えた。

かのじょはうちゅう。

という言葉がすごく気に入って、

何度も何度もつぶやいた。

恋をしたときの全能感、永遠に触れたような気持ち、

そんななんやかんやの真ん中に立っているような。

薬膳中華鍋を食べる。

角田光代さんの幸せは綿菓子。

「いままで負の感情を糧にして作品を書いてきました」

後輩を育てていくことの難しさ。

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「晴れたらこの曲をやろうと思っていました」

と曽可部が言って、わーっと思って

「恋に落ちたら」が始まった。

目の端に映る、横にいる友達も泣いていた。

何度も何度も歌ったこのうた。

晴れた日の朝には

君を誘ってどこかに行きたくなるような

気分になるような気がして

恋に落ちたとき、

私は何度も何度もこのうたを歌った。

恋に落ちたときの胸の高鳴りと同じリズムを刻むうた。

昼にはきっと君と恋に落ちるはず

夜になるとふたりは別れるんだから

恋する乙女のようなこんな晴れた日は

君を迎えに君を迎えにいくよ

たぶん会場中の人が泣いてたと思うよ。

会場が共鳴してた。

青春の甘酸っぱさに。

これからまたサニーデーのライブに行くかと聞かれたら

たぶん行かないと思う。

だけど今日、サニーデーが聞けてよかった。

本当によかった。

缶ビールを飲みまくって、

場所を渋谷の焼き鳥やに移して、私たちはまたもや大いに飲みまくった。

多くは恋の話。

いまの彼女を大切にしない男の人に本当の思いやりなんかない。

男の人と寝るのは簡単だけど、寝ないこと。

その先にある友情とか尊敬とかのほうがどれだけ尊いか。

男の人をだめにしてしまう女の人の優しさ。

セクシャルなことの魅力と恐ろしさ。

私が素敵だと思っている男の人の女の人を見る目の確かさが嬉しかったこと。

オリーブガールとオリーブボーイのゆくすえ。

一瞬一瞬が新しい世界は残酷で真実だけど、私はそんな風には生きられないわと声に
出して改めて思った。

桜吹雪の中で

今年の桜の季節はそわそわしてて、

何度もお花見をしたけれど、

なんだかさっぱり覚えていない。

心にしっかりと焼き付いているのは、

通勤途中の自転車で

桜吹雪の中を駆け抜けたことだった。

川べりの桜並木からは

豪快にじゃんじゃん桜が散っていて、

恍惚の情景だった。

私はその桜並木の中を

マッハスピードの自転車で突入。

そして散り注ぐ桜の花びらのなかを

自転車をこぎ進める。

生暖かい風が私を包み、

目の前には粉雪のような小さな花びらが

どんどん大きくなって近づいてきて私を通りすぎ、

また粉雪みたいな花びらが大きくなって、

私の目にはりついてしまうようだった。

私は「ああ映画のようだ」と思い、

その一瞬あとに自分が思ったことの愚かしさに笑った。

いいえ、この情景が先にあって

映画はそれを撮っただけじゃないのと。

そうして絶え間なく自分に散り注ぐ桜の花びらが、

まるで光の粒のようだ、と思った。

私たちは本当はこうした桜の花びらを

光の粒をいつもいつもいつもいつも浴び続けているのかもしれない。

美しいもの、優しいもの、明るいものがいつも降り注いでいているのに、

それに気づいていないだけなのかもしれない。

ときどきその美しく優しく明るいものは

こうやって桜の花びらや、雪の結晶や、冬の流れ星や、黄金の西日となって、

私たちの前に姿を現してくれる。

いつもここにいるよ、と教えてくれる。

長い別れのときも、わかり合えない悲しみにくれるときも、孤独に苛まれるときも

美しく優しく明るいものがいつも私たちに降り注いでいるのだ、本当は。

いつもいつもいつもいつも。

そう思ったら途方もない多幸感に包まれて、

自転車に乗ったまま気が遠くなってしまいそうだった。

繰り返し繰り返し、桜の花が咲く。

そのたびに私は昔見た桜を思い出し、

1年前には考えなかったこと、

そして毎年考えることを考える。

あと何度桜の花を見るのだろう、

それは遥か昔、清少納言が感じたことと同じ事を私も思う。

と京都でそんな話をしたことを思い出す。

あーでもあれは桜ではなく紅葉の季節だったわね。

映画memo

チェゲバラ28歳の革命
チェゲバラ39歳別れの手紙
少年メリケンサック
チェンジリング
モーターサイクルダイアリーズ
ダージリン急行
ジュノ


チェゲバラの2本を一日に立て続けに観たら
長い旅をした後のように疲れた。
旅の途中の電車のなかのような熱い眠りに誘われて寝てしまったし。
上手に映画の世界に入り込めなかったけれど、
男の子にチェゲバラ好きが多い理由がわかる気がした。
私には革命家にはなれないな、と思う。
うううーん。
まてよ、でも私の毎日だって戦いだ。
私は世界をひっくり返すような革命家にはなれないけれど、
世界を少しでもよくしたいと願っているし、
そう思いながら毎日を過ごしている。
彼のように戦えるだろうか。
強く強く強い心を持ち、瑣末なルーティンワークに飽きず、
山を越え、谷を超え、頭をくるくる回転させて作戦を立て、
自分のやりたいことを実現できるかしら。
そしてそれは世界をよくする一端を担えるかしら。
それは本当に小さな小さな小さな革命だけれども。


少年メリケンサックは
普通に面白かった。
けどそれ以上でもそれ以下でもない感じ。
あおいちゃんもちょっと頑張りすぎかなーと思ったけど。
音楽はすごくよかった。
向井さんなんだーと納得。
峯田くんもサケロックも出てるし。
そういうディテールが楽しい。
全体の構成も悪くなかった。けど。
でもなんでしょう、さらっと忘れてしまうこの軽さ。


チェンジリングは長い映画だったけれど、
あっというまに感じた。
丁寧に丁寧に作りこまれた映画。
事実を淡々と描き、感傷に溺れない。
壮絶な話だからこそ
音楽も映像も引き算引き算で、
人生や人間の恐ろしさと少しの希望を静かに描き出す。
イーストウッドはすごいなーと思う。
いつもパーフェクトに近い映画を撮る。
人が何かを作るとき自分のイメージしたものを100%実現することは難しい。
特に映画という何百人もの人間が関わればなおさらで。
だけど彼は彼がイメージしたほぼ100%に近い形を実現しているんじゃないかと思う。
彼の映画はそう思わせるくらいいつもクオリティが高い。


ジュノはびっくりするくらいお洒落でかわいい映画。
こりゃー、これ観たアメリカの女子高生がそろって妊娠しちゃいますわ!
妊娠の重大さとかそっちのけで、まあそこが面白いんだけど、けっこう紙一重な映画だなと思った。
妊娠がテーマってよりも、女の子が妊娠という事件を通して本当の愛を見つけるまでの成長物語。
それを意識してか、ファンタジーぽく作ってて、そこがチャーミングではある。


ダージリン急行、ラブ!
なんで映画館で観なかったんだろうー。信じられん!
なにもかもがかなり好き!好き!好き!すてき!
たぶん一生の間で何回も観る!

アイサレルよりもアイス

よしもとばななの「海のふた」と
上田紀行の「かけがえのない人間」が
私に残した印象は同じ、
だと日本橋に向かう電車のなかでふと思った。


お金は大切だけどすべてではないということ。
かけがえのない自分を大切にして生きるということ。
そうして初めて人や社会のために何かできるとういこと。


こうやって書くと陳腐すぎてばかみたい!

でもどちらも私がここ何年かぼんやりと考えていたことで、
こうして作家が書く小説と学者が書く新書という形で
まとめて読めたことを嬉しかった。
しかも偶然にも同時に!
そして、いま作家も学者もただの女でさえもそうであるならば、
世界中の人たちが同じようなことを
漠然とでも感じているに違いないのだと思った。


愛されるよりも愛する
と書くと流行歌のタイトルのようで安っぽいけど、
そうして人は初めて自分の人生を生きるのだなあ、と思った。
以前、人はいつから大人になるのだろう、と考えたときに
私はなんとなく「子どもができたとき」という答えを導いたけれど、
それはあながち間違いではなかったのかもしれない。


「愛すること、それは自己を確立することなのです。
愛されたい、それだけでは私たちはいつまでも子どものままです。
親や社会の目を、評価を気にして、自分を確立できないのです。
愛されることから愛することへ、そこから自己の確立が始まるのです」


上田先生はこんなふうに書いていて、私はすごく納得した。
20代のはじめのころは、愛されることばかり考えていた。
愛が足りない、といつも思っていた。
だけど心から人を愛して、その人のためにどんなことでもしてあげたい、
と思った時に初めて大人になれたように思う。
私にはそういう出会いがあって、人を愛する喜びに触れたけれど、
多くの人がはっきりとそれを自覚しやすいのは
子どもを授かったときなのではないか。
無償の愛を注ぐ対象を得たときに、人は自己を確立し、
自分が大人になったことを自覚するのではないか。


いま私の愛は、
決して一人の人間を愛することにとどまらず、
まるで延びたり縮んだりするみずうみのように
やさしい広がりを持っているように思う。
それは、すれちがう人の笑顔が残る口もとや、空のはしっこに切れ切れに流れる雲や、
遠い国の子どもの泣き声にまで及ぶもののような気がする。
おこがましくも。


地下鉄に乗って、日本橋で仕事をし、その後小さな喫茶店で
カレードリアを食べながら、そんなことを考えた。
本と本、点と点がつながった日。
そして、自分がどれだけ愛されていたかということを
深く思い知った日。


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本来、小説家も学者もそうであるべきだし、
そうでなくては意味がないのだ。
「わたしは常に卵の側に立つ」

「海のふた」「かけがえのない人間」

父のお祝いに家族でランチ。

非常にオーセンティックなフレンチ。


はまぐりを焼いたもの
ホワイトアスパラのオレンジソースがけ
北海道の人参スープ
イベリコ豚のソテーにポテトグラタン、温野菜クリーム添えたもの
イチゴのショートケーキ、バニラアイスとイチゴソースと一緒に


食事の途中で自然と昔話になり、
家族でドライブしたときのことや、
弟が子どものころにどれだけやんちゃだったかということを話した。
どこに行こうかと話していたら弟はハイハイでバギーに乗って待っていたことや、
観光地でクルマのキーをつけたまま、私がドアを閉めてしまったこと、
海に泳ぎに行った帰りに、砂浜にクルマがはまってしまってみんなでクルマを押したこと。
話しているうちに、私はすっかり小学生の気分になって、
お腹を抱えて笑いながら、急に泣けて泣けて仕方がなくって、
「やばい泣きそう」と思って、笑い涙のふりをして涙を拭ったのだった。
いまだに親の前で泣くのは恥ずかしい。
他人の前のほうがずっと素直に泣けるのはどうしてだろうか。
私はほんの10歳くらいで、だけどそのころの感覚をありありと思い出せるのだから不思議。
あのころ、父も母も本当に若かった。
弟はほんの小さなうるさくて元気な赤ちゃんだった。


帰りがてら川沿いをずーっと歩いた。
桜の花は3分咲きくらいか。
左右に出ているお店が楽しくて、花より団子のお散歩。


昼がご馳走だったから、
夜は出汁をとった残りの昆布とかつおぶしを煮詰めた佃煮をかけたお茶漬け。
よもぎの生麩を焼いたものを一緒に。


海のふた/よしもと ばなな
¥1,575
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「崖の上のポニョ」を思い出す。
大切なものは半径1m以内にある、そんなおはなし。
いろんな生き方がある。
だけど、本当は自分のまわりの人や自然みたいなものを
毎日大切に大切にして生きていけば、それだけで私たちはちゃんと満たさせる。
よしもとばななの本は時々構成が支離滅裂でおいおいと思うし、
これはちょっと説教くさくもあるけれど、それでも、
言葉の選び方とか、世界観とか、スピリットみたいなものが本当に素晴らしくて
いつも感心してしまいます。
お金は大切だけどすべてじゃない、とか。
自然が壊されていく悲しみとか意味のなさとか。
人生にとって最も大切なのは、自分を受け入れてくれる場所で
すべてを受け入れて、だけど日常に埋没しないで
自分がしたいことを欲張りすぎずに続けていくこと。
こんな風に書いてしまうと恥ずかしいくらい陳腐ですが。
私がここ何年か考えていることが、小説の中に散りばめられていて
彼女の言葉が心の中にすっと入ってきた。
かけがえのない人間 (講談社現代新書)/上田 紀行
¥777
Amazon.co.jp

先日参加したシンポジウムで上田紀行さんの話がめちゃめちゃ面白くて、
その場で買った本が弟からまわってきて一気に読む。
まるでわかりやすい聖書を読んでいるような気持ち。
易しい言葉で、今の日本が抱えている問題を机上の空論ではなく
自分の経験に基づいて書いている。
彼の生い立ちにまつわる話がまたすごいのだ。
お話もとっても上手で、彼の講演だったらまたぜひとも聞きたいと思う。

東京は冷たいところが優しいところ

新宿のホテルの46階で
おさななじみの女の子の結婚のお祝いをした。


豚のリエット クルミと果物のソースがけ
甘鯛のソテー 筍のフリット添え
お祝いのイチゴショートケーキ


おさななじみ、というのもおかしな表現の私たちだけど、
もう20年近くもこうした関係が続いているので、
私には本当のおさななじみはいないけれど、
彼女たちをおさななじみと呼んでもいいのじゃないかしら、
と思った。


夜は西から友人が泊まりに来る。


アボカドのわさび醤油あえ
半熟卵のアスパラ添え
蓮根きんぴら
トマトとモッツァレラチーズのオリーブオイルがけ
あさりのただ蒸したもの
金目鯛の煮付け
菜の花寿司


白エビスで乾杯した後、
結局お土産の白ワインととっておきの赤ワイン「蔵」を空けてしまった。
あさりはにんにくも酒も入れないで、本当にただ蒸し焼きしただけ。
春の大粒のあさりだからこその
野性味あふれる味で、驚くほどおいしかった。
菜の花寿司もこの春、何度も作って大好きなメニュー。
菜の花と卵の色合わせにうきうきする。


女の子のおしゃべりは何を話していいのかわからないということ。
処女は一刻も早くなくしたほうがいいということ。
専門分野を持つということ。
やらなかったことを後悔しながら生き続ける女の子の話。
やりたいことは何でもやってみよう。
東京は冷たいところが優しいところ。


そう考えたら、私は後悔はないなーと思った。
いつでもなんでも一生懸命やってきて、
他の道を考えたことはあったけれど、
自分の道を歩いてきたらいつのまにかいまの私だった。
いまの私はどんな人生も受け入れていくだろう。
後悔はしないだろう。


いろんなことが終わったんだな、と思った。
私に絡み付いていたいろんなものがするするとほどけていく感じがした。


友人の到着を待ちながら料理をしていて、
まだまだ明るい窓の外を見て、
ああ、気づいたらもう春じゃないの、と思った。
春ですよー、わたし。
倦怠感に負けず、
この束の間の花咲く季節をしっかりと楽しむのだ。

1978年という刻印

食事会。
中華薬膳のお店で、パレットみたいに色とりどりの野菜と
キノコと豚肉の鍋を食べた。


3次会の途中で同い年の男の子と話したときも
多分相当酔っ払っていたけれど、
その瞬間、さっと酔いが覚めて大切なことを思い出したのだった。


「SWITCHの1978年生まれ特集って覚えてます?」
よく覚えている。
たぶん世の中の1978年生まれの人たちは
みんな衝撃を受けたんじゃないかと思う。


カインのしるしのように、
1978年生まれの私たちにははっきりと刻印が押され、
いまもなおそのことを思い出させる。
ただ、私たちはおでこのそのしるしを見つけると
「何も言わなくても大丈夫。私たちは仲間だね」
と無言のメッセージを交し合う。
1978年生まれの私たちはそんな暗い連帯感でつながっている。
例え思い上がりで自意識過剰だといわれても。
それくらい1978年生まれの私たちは不遇であったし、
それをしっかりと自覚していたように思う。


デザイン史。
デザインの始まりは究極のデザインは空気椅子。
具象から抽象へ。それはデザインだけではない。アートも何もかも。
主のいない館の話。
酔っ払いの珍客。愛というより、負けず嫌いな自分にうんざり。

memo

価値観の180度回転の回転のいま。

あのときのように未熟じゃない私たちがいまやろうとしていること。できること。

対アメリカという意識で初めて語られる日本。

アメリカの驕り。オバマのダンス。

日本とは玉ねぎ。

むいてむいて何かあるかと思っても実体は何もなくて、

「日本とは何か」と問うているときにある。

歴史とはいまである。いまを抜きに歴史を語ることなんてできない。

人がよりよく生きるための政治。

ひなまつりの夜

会社の先輩と一緒にバスで帰る。
夕方雪だった雨は、夜に再び雨になった。

バスの中で森ガールの話になって
一緒に該当項目を指折り数えていく。
62項目中、先輩は35個で私は29個。
「森ガールとか気持ち悪いけど、
確かにもてますよね」という話。
私はいっけん森ガールっぽいけど、
実はまったく森ガールではないと言われて
ほっとした。
というか30にもなって森ガールとか
もはやホラーだし!


23時ごろ。
まあ、森ガールに相応しくない
鹿児島料理のお店に入り、
「生ください」と言ったあと
わあ、焼酎がいっぱいある!と
「やっぱり瓶ビール」にして、
2杯目からは焼酎にした。
佐藤黒
三岳
蝶と花
伊佐美
森伊蔵
山猫

そしていつものごとく気づいたら仕事の話。

私たちは飲むと最後にはいつだって仕事のことばかり。
もちろん本や映画や恋の話もするけれど、
頭のなかの半分は仕事のことばかりなんです。
酔っ払って飲みまくっている先輩を目の前にして、
私は家族や恋人や友人よりも長い時間を
彼女と一緒に過ごしてきたのだと思うと
先輩を愛おしく感じた。


軽くご飯のつもりが夜も深く閉店の2時。
先輩がタクシーの乗るのを見届けて、
冬の雨で洗われた空気がきれいな街を
大きく深呼吸してきれいな空気を体に送りこんで、
歌いながら歩いて帰った。

大人はいいなー

大人はいいなーとぐるぐる酔っ払った頭の中で思った。


学生時代の同級生の女の子が結婚して、
その結婚パーティー。
水辺のオープンカフェで花火を見た。


楽しかったのはそのあと安い居酒屋で
みんなで飲んだこと。
みんなで集まったのは2年ぶりのことだった。

もう半分が結婚していて、
家を買う話とか、子どもの話とか、
きちんと地に足が着いた話をしていて
なんだか私が普段している話と違いすぎる!と思った。
よく飲む男の子につられて、じゃんじゃん飲んでいたら、
すっかりいい気分になって、
昔つきあっていてもう結婚してしまった男の子に絡んだりして、
そうしたらますます楽しくなってきて、
なんかよくわからないけど笑いが止まらなくなった。
みんなで、いろんなことを話した。

多くは昔の話。
いまはもうキレイなホテルになってしまった古い合宿所のことや、
誰と誰がつきあっていたかとか、
学生時代にみんなで言い合いになったわけのわからないケンカや、
みんなして真夜中に私の家に遊びに来てそのまま泊まったことや、
卒業旅行で真夜中まで先生にプレゼントするアルバムを作ったことや、
卒業式のあと、男の子の家に行ってみんなでコタツに入ってしゃべったことや、
先生の悪口とか、素敵だった先輩のこととか、あまり後輩を可愛がらなかった反省とか、
そして私は昔つきあっていた男の子とつきあいはじめたきっかけを話したりして、
みんなでお腹を抱えて笑った。


私たちはみんな、育った場所も環境も、聞く音楽も、好きな映画も、価値観も全然違う。
与えられたこの場所で出会わなければ、絶対に友達にはならなかった。
間違いなくそういう私たちだった。
そういう意味では本当に稀有な集団だと思う。


私たちは素敵な大人になったね。
あの頃はいつも自分のことばかり一生懸命で
みんな人に優しくなれなかった。
でもそれが若いってことだった。

いまの私たちは、
優しくてデリカシーがあってみっともないことを笑い飛ばせる。
自分に自信がついて、ずっとずっと強くなった。

10年前の思い出話がこんなにも楽しいなんて、
10年前の私たちは知らなかった。


既婚者が多いから10時までね、と飲み始めた会は
気づいたら12時をまわり、それでも帰りがたく、
次に時計を見たときは終電も行ってしまった後だった。

タクシーに乗って、女の子としゃべりながら
私は同じ話ばかりを繰り返し、
ぐるぐるまわる頭の中で
みんなだいすきーとばかみたいに思っていた。


本当に。
年をとってみるものですね。