川内倫子写真展「Semear」 | hirari

川内倫子写真展「Semear」

春先のある晴れた日に、川内倫子の写真を観るためにFOILのギャラリーへ出かけた。
休日の馬喰横山は無人街のように静かで、私は道に迷って同じ道をぐるぐるまわりながらギャラリーへ辿り着いた。
アルゼンチンの人々を撮った、という写真はそうと言われなければ、アルゼンチンだとは気づかないような写真ばかりで。だけど、そこからはざわめきやにおい、てざわりが伝わってくるようなものばかりだった。


夜のスタジアムの人々を撮った写真からは歓声とかすかな興奮が伝わってきたし、まるでケーキに刺さるローソクみたいにカラフルなマチ針が刺さった針山はおしゃれなおばあちゃんのものみたいだったし、じっとこちらを見つめる外国人の子供は何かをしゃべりだしそうだったし、旋回する飛行機の窓から見えるのは森と川。


ギャラリーをあとにして、目を閉じたら夜のスタジアムの写真が浮かび上がってきて、かすかな歓声が聞こえた。 世界中どこに行っても、かわらない日常みたいなものがあって、川内倫子はそれを切り取って私たちにニュートラルな態度で示してくれる。


写真展はあまり行かないけど、絵画と同じで、オリジナルを見ることの大切さを思い知った気がした。写真集で見るそれとは全然ちがうのだ。色も大きさも存在感も。



何年かまえの夏の初めのころ、会社を早引きしてカルティエ展に行った。
もとはといえば、好きな作家が絶賛していた展覧会だから見たくなって、開催時期の終了間際に急いで出かけたのだった。

よく晴れた日の午後で、清澄白川の駅から近代美術館まで歩いた。
私は黒いワンピースを着ていた。


どれもこれもがおもしろくって、不思議なものばかりだった。現代美術の魅力を私は十分に理解する力を持っていなくて、わからないものばかりだったけど、まるで遊園地に初めて来た子供のように何もかもを素直におもしろいと思った。

すべてを十二分に見るのは時間が足りなかった。


最後の最後、閉館間際に川内倫子の「Cui Cui」というスライドショーを見た。彼女が家族の記録を写真に撮ったものをスライドにし、それにピエール瀧が音楽をつけた作品で、私は釘付けになったのだった。
川内倫子の写真はなんといまの時代の私たちの心にフィットするのだろう、と思った。色あせたようなでもしっかりと鮮明な写真は、懐かしく切なく、心の奥底にずっとあったのに忘れていた思い出のような色をしていた。そして、毎日の生活を切り取った1枚1枚は、あたりまえの風景を再認識させるようなものだった。


現代アートをさんざん楽しんだ最後に私が見た川内倫子の写真は、それまで見ていたものを一気に吹き飛ばしてしまった。
現代アートというのは、映像や立体物や新しい素材といった、今までの美術手法とは異なる手法を編み出して、新しい表現を試みているものだけれども、結局私がいちばん心に残ったのは写真という超アナログな表現方法で表現した作品だったのは皮肉というかおもしろいことだなあと思った。
そして、川内倫子の写真はそのアナログな手段をとりながらも、まったくもってきちんと新しい表現をしていたのだ。


帰りに行列のできる居酒屋に行って、モツを食べてワインを飲んで、その日見たものの感想をたくさん話したけれど、ワインを飲みすぎたせいで、話したことのひとかけらも思い出せない。

だけど、あのとき見たものや感じたことはいまもこうやって思い出せるということに、作品の力を感じずにはいられない。


「Cui Cui」の写真集が欲しかったけど、その日は荷物になるから、と買わなかったけれど、後日、本屋で買い求めたそれは、もちろん実物のスライドショー作品ほどの鮮やかさを持たないが、休みの日の午後や、夜寝る前にふと開いては眺めてみている。