横浜トリエンナーレ | hirari

横浜トリエンナーレ


かがみ

横浜トリエンナーレは思ったよりもおもしろくて、
2日間とも駆け足で見すぎたと反省した。


現代アートは理解しがたいけれど、
おもしろいことは確かで、
よくよく見ていると、
文学や仕事や人生なんかと同じで、
見え方こそはちがうけれど、
そのものが備える本質みたいなものは一緒なのだと
わかるようになった。


作家のいしいしんじが、「まぐわい」と呼んだ、
そのダンスが美しくて、
私は一日中だって見ていたいと思った。
実際は一時間しか見られなかったけれど、
何度でも何時間でも見ていたいと思うような美しいダンスだった。

古今東西の静のキスを紡ぎ合わせて、動のキスにしたような。
一組の男女があるひとつの振り付けに基づき、
お互いのまぐわいを披露するというものであった。
手は髪を撫で、手と肩と胸と腰と足と太ももの付け根と尻を這う。
体は交互に上下に重なり合い、
唇は何度も遠ざかっては近づき、重ね合わせられる。
それは夢の中で妖精が戯れ合うのを
見ているような美しいダンスだった。
厳かな儀式を見ているような気持ちにさえなった。


踊っている女性の顔がキラキラしている、と思ったら、
彼女の瞳から涙が溢れていたのだった。
確かに、こんなダンスを心をこめて踊っていたら、
私だってきっと涙が止まらなくなるんじゃないかな、と思う。


私はダンスのことはよくわからない。
だけど、ダンスの型というものを咀嚼して体で表現しきったとき、
自分自身がダンス、そしてその本質そのものに
なったりするんじゃないだろうか。
その興奮とか心の震えに
涙が溢れたんじゃないだろうか、と思った。


私たちがそのダンスを食い入るように見ていたときに、
突然おばさんの怒鳴り声が響く。
「こんなものを公共の場でやるなんて、おかしい、不愉快だわ」
確かに、子供連れのお母さんや、おじいちゃんやおばあちゃんは
目のやり場に困って、「まあ」とか「やらしいわあ」

とか照れたひとりごとを言いながら立ち去る。
5歳くらいの女の子がお母さんとお父さんに連れ去られそうになりながら、
でも「見たい!」「見たいの!」と言っていたのが印象的だった。


一見、セクシャルでしかないこのまぐあい。
そう思われても仕方ないけど、
だけどああ、10分だけしっかり見てみてみたら。
そうしたら、これは美しいダンスだとわかるんじゃないかしら。


格子越しに口を開けて眺めるおじいちゃんも、

「もっと見たい!」とぐずる女の子も、

「不愉快よ!」と怒鳴るおばさんも、

それを見ておもしろいなーと思いながら

ばかみたいに真剣にダンスを見る私たちも

すべてが作品の一部。


霧によって覆い隠されるものと、はっきりと見えてくるもの。
濃密で幽玄な白の世界にくっきりと射さす光の道。
ゆっくりと落下する電球が魅せる目がくらむような闇の中の光と、静かな弦音楽。

何を読んでも二番目にでてくるのはいつでもあなた:悲しみのセックス。
破壊的に割られた鏡に映る分断された自分の姿。
ベイビー・マルクスのキッチュでワクワクする予告編。
海に並ぶ少年たちの、見ざる言わざる聞かざる。
クールなキャンドルセレモニー。


人が作ったものをつまらないなんていうのは
簡単なことだけど。
きちんと向かい合ったら
本当につまらないものなんて
存在しないんじゃないかとも思います。